薔薇節 ━━しょうびせつ━━
三、 熱
「……何してる」
目を覚ました言緒さんが身じろいだので、蕎麦殻の括り枕が、さり、と音を立てました。
「袖口が傷んでおりましたので、奥口にして縫い直しております。将棋は袖口が目立ちますから」
「そうではなくて━━」
咳をした拍子に、言緒さんの額から手拭いが落ちました。
高くなった陽が差し込んでいて、まぶしそうに目を閉じます。
わたしは窓掛けを引いてから、手拭いを盥の水に浸しました。
ちゃぷ、という水音に、言緒さんの弱々しい声が重なります。
「ずっとここに?」
「はい」
深夜、内弟子の男性に担がれるようにして、言緒さんは戻ってきました。
終局後の酒宴で昏倒したとのことです。
「お加減いかがですか?」
「……悪い」
「でもお熱はだいぶ下がったようですね」
絞った手拭いを瞼まで覆うようにのせると、言緒さんはふうっと息をもらしました。
「毎日あのような板の間で寝ていたら、お風邪を召して当然です。お布団だって使ってもらえないと、臍を曲げてしまいますよ」
返事がないのは拒む意であるのか、眠ってしまったのか。
答えを得ることは諦めて、わたしはふたたび針をとりました。
「水」
乾いた口からかすれた声が聞こえて、わたしは針を置いて言緒さんを起こしました。
差し出した湯呑から半分ほど水を飲むと、また布団に沈もうとします。
「もう少しがんばって、お粥を召し上がりませんか?」
「いらない」
「何か召し上がらないと、いつまでもよくなりませんよ」
しぶしぶ起きあがった言緒さんの背中に半纏をかけ、茶碗を手渡しました。
木の匙でふた口ほどお粥を口に含むと、深いため息をつきます。
「気持ち悪い……」
「朝からお熱がありましたのに、無理してお出かけなさるからです」
「君は神通力か何かの使い手なの?」
「まさか。髪を直したとき、頭が熱かったので」
確かめるように、言緒さんは髪の毛の中に指を差し入れます。
「知ってて、何も言わなかったんだ」
「お止めした方がよろしかったですか?」
「いや」
止めたところで聞くひとではないのです。
対局に向かったのだと聞いて、尚更だと思いました。
「せめて酒宴だけでもお断りできればよかったのに」
「付き合いに応じないと、対局をつけてもらえない」
会派に所属し、段位を認定されても、将棋指しに立場を保障するものは何もありません。
権威ある先生に新聞社と取り継いでもらわなければ、棋戦に出ることさえかなわないのです。
「本当は酒なんて飲みたくないし、人付き合いも面倒くさい。仕事もしたくない。私は、ただ将棋を指していたい」
子どものように駄々をこねる姿は、将棋盤に向かう姿と重なって見えました。
将棋はもちろん勝つために指すのですが、対手はただの敵ではなく、一局の将棋を作り上げる同士でもあるのだそうです。
「将棋がしたい。強いひとと指したい。それで、もっと強くなりたい」
将棋という広く深い空を、自分は、自分たちはどこまで行けるのだろうと遠く手を伸ばす。
それはまるで星を掴もうとする子どものように、愚かしく、純粋です。
対して賭け将棋は、儲けることだけを目的とするもの。
自分の棋力を偽ったり、八百長を仕組んだり、盤外での騙し合いも勝負のうち。
なるほど言緒さんには向いておりません。
目を覚ました言緒さんが身じろいだので、蕎麦殻の括り枕が、さり、と音を立てました。
「袖口が傷んでおりましたので、奥口にして縫い直しております。将棋は袖口が目立ちますから」
「そうではなくて━━」
咳をした拍子に、言緒さんの額から手拭いが落ちました。
高くなった陽が差し込んでいて、まぶしそうに目を閉じます。
わたしは窓掛けを引いてから、手拭いを盥の水に浸しました。
ちゃぷ、という水音に、言緒さんの弱々しい声が重なります。
「ずっとここに?」
「はい」
深夜、内弟子の男性に担がれるようにして、言緒さんは戻ってきました。
終局後の酒宴で昏倒したとのことです。
「お加減いかがですか?」
「……悪い」
「でもお熱はだいぶ下がったようですね」
絞った手拭いを瞼まで覆うようにのせると、言緒さんはふうっと息をもらしました。
「毎日あのような板の間で寝ていたら、お風邪を召して当然です。お布団だって使ってもらえないと、臍を曲げてしまいますよ」
返事がないのは拒む意であるのか、眠ってしまったのか。
答えを得ることは諦めて、わたしはふたたび針をとりました。
「水」
乾いた口からかすれた声が聞こえて、わたしは針を置いて言緒さんを起こしました。
差し出した湯呑から半分ほど水を飲むと、また布団に沈もうとします。
「もう少しがんばって、お粥を召し上がりませんか?」
「いらない」
「何か召し上がらないと、いつまでもよくなりませんよ」
しぶしぶ起きあがった言緒さんの背中に半纏をかけ、茶碗を手渡しました。
木の匙でふた口ほどお粥を口に含むと、深いため息をつきます。
「気持ち悪い……」
「朝からお熱がありましたのに、無理してお出かけなさるからです」
「君は神通力か何かの使い手なの?」
「まさか。髪を直したとき、頭が熱かったので」
確かめるように、言緒さんは髪の毛の中に指を差し入れます。
「知ってて、何も言わなかったんだ」
「お止めした方がよろしかったですか?」
「いや」
止めたところで聞くひとではないのです。
対局に向かったのだと聞いて、尚更だと思いました。
「せめて酒宴だけでもお断りできればよかったのに」
「付き合いに応じないと、対局をつけてもらえない」
会派に所属し、段位を認定されても、将棋指しに立場を保障するものは何もありません。
権威ある先生に新聞社と取り継いでもらわなければ、棋戦に出ることさえかなわないのです。
「本当は酒なんて飲みたくないし、人付き合いも面倒くさい。仕事もしたくない。私は、ただ将棋を指していたい」
子どものように駄々をこねる姿は、将棋盤に向かう姿と重なって見えました。
将棋はもちろん勝つために指すのですが、対手はただの敵ではなく、一局の将棋を作り上げる同士でもあるのだそうです。
「将棋がしたい。強いひとと指したい。それで、もっと強くなりたい」
将棋という広く深い空を、自分は、自分たちはどこまで行けるのだろうと遠く手を伸ばす。
それはまるで星を掴もうとする子どものように、愚かしく、純粋です。
対して賭け将棋は、儲けることだけを目的とするもの。
自分の棋力を偽ったり、八百長を仕組んだり、盤外での騙し合いも勝負のうち。
なるほど言緒さんには向いておりません。