薔薇節 ━━しょうびせつ━━
大竹先生の御宅へは、先日結婚のご挨拶にうかがったばかりなので、迷わずたどり着けました。
「ご苦労様です。お預かりしますね」
現れたのは、先生の内弟子をなさっている若い男性でした。
わたしはわずかに身を引いて、風呂敷包みを抱きしめます。
「皆川に直接渡してもよろしいですか?」
姿をひと目見たくてそうお願いすると、男性は顔を曇らせました。
「ちょっと待っていてください」
一度奥に引っ込み、誰かとひと言ふた言話してから戻ってきます。
「今、最終盤なんです。皆川四段は長考中なので、一段落するまでは話し掛けないでください。できるだけ物音も立てないでくださいね」
と、厳しい表情で言い含めてから案内してくれました。
きしむ階段をそろりそろりと上った先は、六畳の座敷が二間つづきになっていました。
手前の座敷に入ったところで、男性は足を止めます。
奥の座敷に言緒さんがいました。
だらしなく脇息にもたれかかり、髪の毛をくしゃくしゃと乱しながら盤を見つめています。
くわえた煙草に火はついておらず、昨日の朝と同じように口先で遊ばせていました。
聞いていたように、袴は濡れていろが変わっていましたが、それも忘れているようです。
目に見えるひとつひとつはよく知っている言緒さんですのに、まるで知らないひとでした。
いつもはおだやかな瞳が、このときは、しんと暗い湖面のようだったのです。
周囲の景色はもちろん、見つめる盤面さえそこには映っていません。
まばたきもしない言緒さんを見つめるわたしも、まばたきを忘れていました。
お相手の方は、『対手』というそうですが、しゃんと背筋を伸ばして盤を見下ろしています。
どんな些細な間違いでも、その視線をすり抜けることは適わないように思えました。
釘を刺されずとも、物音を立てられる雰囲気ではありません。
いつもあたり前にしていた呼吸さえはばかられるのです。
息苦しさから胸に手をあて、それでも言緒さんから目が離せず、わたしは棒立ちでそこにいたのです。
男性が小さく畳を叩いたので、わたしもその場に腰を下ろしました。
衣擦れの音も大きく聞こえました。
「ご苦労様です。お預かりしますね」
現れたのは、先生の内弟子をなさっている若い男性でした。
わたしはわずかに身を引いて、風呂敷包みを抱きしめます。
「皆川に直接渡してもよろしいですか?」
姿をひと目見たくてそうお願いすると、男性は顔を曇らせました。
「ちょっと待っていてください」
一度奥に引っ込み、誰かとひと言ふた言話してから戻ってきます。
「今、最終盤なんです。皆川四段は長考中なので、一段落するまでは話し掛けないでください。できるだけ物音も立てないでくださいね」
と、厳しい表情で言い含めてから案内してくれました。
きしむ階段をそろりそろりと上った先は、六畳の座敷が二間つづきになっていました。
手前の座敷に入ったところで、男性は足を止めます。
奥の座敷に言緒さんがいました。
だらしなく脇息にもたれかかり、髪の毛をくしゃくしゃと乱しながら盤を見つめています。
くわえた煙草に火はついておらず、昨日の朝と同じように口先で遊ばせていました。
聞いていたように、袴は濡れていろが変わっていましたが、それも忘れているようです。
目に見えるひとつひとつはよく知っている言緒さんですのに、まるで知らないひとでした。
いつもはおだやかな瞳が、このときは、しんと暗い湖面のようだったのです。
周囲の景色はもちろん、見つめる盤面さえそこには映っていません。
まばたきもしない言緒さんを見つめるわたしも、まばたきを忘れていました。
お相手の方は、『対手』というそうですが、しゃんと背筋を伸ばして盤を見下ろしています。
どんな些細な間違いでも、その視線をすり抜けることは適わないように思えました。
釘を刺されずとも、物音を立てられる雰囲気ではありません。
いつもあたり前にしていた呼吸さえはばかられるのです。
息苦しさから胸に手をあて、それでも言緒さんから目が離せず、わたしは棒立ちでそこにいたのです。
男性が小さく畳を叩いたので、わたしもその場に腰を下ろしました。
衣擦れの音も大きく聞こえました。