大江戸ガーディアンズ

ところが、そろそろ稽古に入れそうな(よわい)に達したと思われた頃、あることが判明した。

中剃りこそせぬものの若衆(まげ)に結っていたその子は、実は兵馬の弟ではなく「妹」であったのだ。

道場の者たちは「かずさ」と云う名を聞き及んではいたが、てっきり「上総」と書くのだと思っていた。


当然のことながら、武家の子弟が集まる道場に「おなご」が交じって稽古するなど言語道断と相成(あいな)ったわけだが……

その妹——和佐は決して得心しなかった。

出入りが(ゆる)されぬようになってからも相も変わらず道場へ日参し、師範の顔を見るや否や「どうしても稽古を付けさせてほしい」と頭を下げ続けた。


さような日々がしばらく続き、とうとう和佐の父親である松波 多聞が動いた。

『非番の折には(それがし)が「師範」となり門弟を指導するがゆえ、どうか我が娘を道場へ通わせてやってはくれぬか』

当時、多聞は当番方与力から吟味方与力になり、そろそろ同心支配役(筆頭与力)の御役目が見えてきた頃合いであった。

しかも一刀流免許皆伝はもちろんのこと、若衆髷の時分から試合をしたら負け知らずで、たとえ一刀流ではない門外の者と他流試合をしても相手が歯が立たぬほどの腕前である。

だれもが「師」として教えを乞いたいと願う憧れの人だった。


そうして、ようやく和佐は道場で稽古することを赦された。

和佐が父の手ほどきを受けて兄よりも熱心に稽古に打ち込むようになったのには、かような所以(ゆえん)であった。

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