また、君と笑顔で会える日まで。
ケーキ
望月穂波side
どうして紗希はあたしの傘を使わなかったんだろう。
「なんで?」
昇降口から傘をささずにかけていく紗希の姿が瞼に焼き付いて離れない。
教室に戻り志歩とこはねに「紗希と何かあった?」と尋ねても2人は「何もない」の一点張りだった。
でも、紗希の様子が妙にきにかかった。
ラインを送っても既読にならず、電話も繋がらない。
あんな土砂降りの中傘もささずに学校を飛び出すなんて信じられない。
何かがあったとしか思えない。
バイト中も紗希のことが気になって仕方がなかった。
仕事中、何度か店長に隠れてこっそりラインを確認したもののいまだに既読がつかない。
ちゃんと家に帰れているのかもわからず、不安が募っていく。
紗希と直接会って話がしたいと思い担任に住所を聞いたけど個人情報だと言われ教えてもらえなかった。
しつこく粘ると町内までは教えてくれた。
そこからどうにかして彼女の家を探し出そうも思っていたけれど、家に行く理由を探さなくてはならない。
どうしよう。なにがある。そんなことを考えていると、品出し中に紗希が送ってきたスタンプの猫とコラボしたスイーツが発売されていたことに気がついた。
そのとき、ある考えが頭をよぎった。
このスイーツをだしに紗希の家まで行ってみよう。
二十時にバイトを上がるとあたしはすぐさま紗希の住む街へとむかった。
「こんばんは。突然すみません。このあたりに天馬紗希っていう高校生が住んでいるんですけど、知ってますか?」
「えっ。天馬紗希ちゃん?あなた、名前は?どうして彼女のことを?」
ほんの少しだけ警戒したように私の顔を覗き込んだおばさんに微笑む。
すぐに否定しないということは紗希をしっているに違いない。
よかった。ついてる!!こんなすぐに紗希を知っている人と出会えるなんて!!
思わず目を輝かせる。
「あたし、望月穂波っていいます。紗希と同じクラスなんです!!家に行きたいんですけど、場所を知らなくて」
「家に?本当に……?」
「はい。ほらっ、制服も一緒です。青光高校」
「あら、本当だわ。でも、あなたのような派手な子が本当に紗希ちゃんと同じ学校なの……?」
「えっ、まじか。あたし疑われてる……?えっと、じゃあ、学生証みせます。それなら信用してもらえます?」
暗がりの中取り出した学生証をスマホのライトで照らすと、おばさんはまじまじとあたしの母と学生証を見比べたあと、納得したように頷いた。
「確かに青光高校の生徒みたいね。それで、紗希ちゃんに一体なんのようかしら?」
いまだに言葉の端々にトゲをかんじられる。おばさんも個人情報うんぬんを気にしているのだろうか。
「実は近くのコンビニでアルバイトしてて。紗希、今日ちょっと元気なかったからスイーツでも買って届けようかなって」
「こんな時間に?」
おばさんはいまだにあたしに品定めでもしているような視線をなぜかけてくる。
「バイト上がってすぐきたんです。こんな時間になっちゃって申し訳ないんですけど……」
「そうなのね」
おばさんはあたしの顔をじっと見つめたあと、
「私は高橋です。紗希ちゃんのことはよく知ってるわ。案内するからついてらっしゃい」と言って歩き出した。
ここから歩いて五分ほどの距離に紗希の家はあるらしい。
偶然にもおばさんは紗希の家の隣人だった。
手にぶら下げていた買い物袋をよいしょっと声に出して肩にかけたおばさんに、
「重そうですね。待ちましょうか?」
と尋ねると、おばさんは「そう?」というと同時に「じゃあ、いいかしら?」とあたしに買い物袋を差し出した。
「紗希ちゃんとはいつからお友達なの?」
「4月に同じクラスになってからですかねぇ。でも、前からあたしは知っていて。紗希は全然覚えてなかったみたいなんですけど。その日から友達になりたいなって思ったんです。でもなかなか話しかけるタイミングがなくて。最近はちょこちょこしゃべれるようになってきました」
といっても、あたしのほうから一方的に話しかけているだけ。
紗希はあたしのことが嫌いなのかもしれない。
そう考えると、ちょっと落ち込む。あたしは紗希が大好きだ。
だって、紗希はあたしの恩人だから。
ポケットの中をぎゅっと握り締めると温かい気持ちになる。
「紗希ともっと仲良くなりたいんです」
ハッキリそういうと、おばさんはにこりと笑った。
「あら、そう。紗希ちゃん、ようやくお友達ができたのねぇ」
「え?」
おばさんは一方的に話し始めた。
「あんなことがあったけど……よかったわよねぇ。生きていて」
「え……」
生きていてよかった?なにそれ。意味がわからない。
あたしがおばさんのいう『あんなこと』を全て知っている前提で話はどんどん進んでいく。
「中学生の時、ひどいいじめにあっていたんだってね。でもずっと1人で抱え込んで我慢してたのね。中2の夏、家のクローゼットで……ね。救急車が来たら騒然としちゃって。お母さんなんてもう取り乱して泣き叫んでて……あぁ、もうあまりにも可哀想で思い出したくもないわ」
おばさんの言葉を止めるタイミングがない。
「あのとき発見が早くて本当によかったわ。でも、いじめを苦に自殺未遂なんて……。相当追い詰められちゃってたのねぇ」
「自殺未遂……」
買い物袋を握りしめる両手に力がこもる。紗希がいじめを苦に自殺未遂をした……?
そんなこと1ミリもしらなかった。まさか、彼女にそんな過去があったなんて。
ぐるぐると紗希の顔が頭に浮かぶ。
「それから学校にも通えなくなってしばらく家に引きこもってたのよ。でも、頑張って勉強して青光高校に入学したって聞いて、私も嬉しくなってきちゃって。だけど、いつもなんだか寂しそうな顔してるから気になってて……。でも、よかった。あなたみたいな可愛らしいお友達ができたのね」
おばさんはほっとしたように目尻をさげた。
「はい、ついた。紗希ちゃんのおうちはここよ」
おばさんがゆびさした先には二階建ての洋風な造りの家があった。
ナチュラルな雰囲気の洋風塀瓦の乗ったアールの曲線の問柱にはガラス素材の【天馬】という表札がかかげられている。
玄関口まで続く曲線のアプローチの周りは芝生が敷き詰められていた。
「へぇ……素敵なおうち」
「おくさんがまめなひとでねぇ。家庭菜園とかガーデニングなんかもやってるのよ」
自分のことではないのに、なぜか高橋さんが自慢げに花をならす。
「いい家族なんだよ。紗希ちゃんのうちは」
「そんな感じがします」
「荷物、どうもありがとう。助かったわ」
高橋さんはあたしの手から荷物を取ると、にっこり笑った。
「紗希ちゃん、すごく優しい子なの」
「はい」
「でもね、あなたも優しい子よ」
「え……?」
優しい子……?あたしが?
ポカンっとするあたしを置き去りにしてたかさんが手を振って隣の家に入っていく。
放置子、いらない子、かわいそうな子,貧しい子、ネグレクトされてる子。
今まで誰かに優しい子と言われたことなんて一度もなかったような気がする。
胸の奥底から湧き上がりそうになる感情をグッと堪え、一度深呼吸すると、玄関のチャイムに指を伸ばした。
小学生の時は玄関の呼び鈴を押す瞬間が大好きだったけど、少しだけ成長した今、押すことを躊躇してしまう。
当時幼かったあたしは、温かい玄関に足を踏み入れると自分もその家族になれたように錯覚していた。
だけど、どうやったってあたしは家族にはなれない。
あたしがその家に足を踏み入れることで幸せな家族の生活が崩れてしまう。
『ほなみちゃんとは遊ぶなってお母さんに言われたの。だから、帰って』
そう言われた理由だって今はちゃんと理解できる。
グッと奥歯を噛み締めてチャイムを鳴らすと「はい」という女性の声がした。
「こんばんは!望月です。夜分遅くにすみません。紗希ちゃん、いますか?」
インターホンにはカメラがついている。きっと中のモニターであたしの顔を確認できるはずだ。
ちょっと緊張しながらいうと、「ちょっと待ってね」という言葉のあと、あっけなく玄関扉は開けられた。
「こちらはどうぞ?」
インターホンのついた門柱か玄関までは少し距離がある。
あたしはおそるおそるアプローチを歩き玄関に向かった。
「はじめまして。望月穂波です。あのっ、紗希ちゃんはいますか?」
玄関先までくると、髪を一つに束ねたエプロン姿の女性が立っていた。
紗希のお母さんだろうか。ぱっちりとした目元が紗希によく似ている。
「ごめんなさい。起こしてくるから少しリビングで待っていてくれる?どうぞ、あがって?」
「いえ!!ここで大丈夫です。あの……起こしてくるからって紗希どうしたんですか?」
「少し疲れちゃったみたいで寝てるの」
「え。寝てる?紗希、具合でも悪いんですか!?」
今日あの土砂降りの中傘も差さずにいたせいだろうか。風邪でもひいた?それとも──。
「ううん、大丈夫」
「あー、そうなんですね!!よかったぁ……」
ほっと胸を撫で下ろすと、おばさんはあたしの様子を見て少し驚いたようにみえた。
でもすぐに元の表情にもどった。
「心配してくれてありがとう。ちょっとまってね。よんでくるわ」
「いえ、寝ているなら大丈夫です。これを渡し……──」
肩にかけたバッグを手にかけると、おばさんは小さく首を振った。
「紗希も喜ぶから。ごめんね、ちょっと待っててね」
おばさんがスリッパをパタパタも鳴らして階段を駆け上がっていく。
1人玄関先に残されたあたしはぐるりと家の中に視線を走らせた。
明るい家だ。照明が明るいのではない。家の中の雰囲気がとても明るいのだ。
うちのアパートとは比べ物にならないほどの大きさの玄関や床は手入れが行き届きピカピカだ。
壁にはセンスのいい絵画が飾られ、キッチンの方からは甘い匂いが漂ってくる。
紗希のお母さんはこんな時間までエプロンをつけて何かを作っていたんだろうか。
玄関先には低いヒール靴とみがかれた紳士物の黒い革靴と紗希の靴が揃って置かれている。
仲睦まじい三人家族の絵が目に浮かぶ。
幸せを絵に描いたような過程で紗希は育ったんだろう。
2階から話し声が聞こえる。突然やってきたあたしに紗希はきっと驚くだろう。
ポケットの中のスマホがブーッブーッと音を立てて震えた。
ラインが届いたようだ。ポケットから取り出して確認する。
【母:まっくんがおこってる】
【母:今日まっくんの誕生日だから早く帰るって言ってたのにどこにいるの?】
はっとする。
そういえば今朝、今日は松田の誕生日だから早く帰ってくるようにと念を押されていたのだ。
毎年、松田の誕生日は我が家で祝うことになっていた。
祝うと言っても母が買ってきた安物のケーキを食べ、ビールをたらふく飲むだけ。
2人は酒を飲み交わしてどんちゃん騒ぎをし、あたしは翌日その後片付けに追われる。
べつにあたしがいようがいまいが構わないはずなのに、母も松田もなぜかあたしを巻き込もうとする。
勝手にやっても構わないのに。あんな男の誕生日を祝う義理あたしにはない。
【ごめん。まだバイト】
適当に返信してからポケットの中にスマホを押し込んだ時、階段から紗希がゆっくりとした足取りで降りてきた。
部屋着だからいつもと雰囲気が違う。目が合うと紗希はほんの少しだけ驚いたように目を見開いた。
『あんなことがあったけど……よかったわねぇ。生きていて』
お隣の高橋さんの言葉がよみがえる。
あたしは紗希を怖がらせないようにできる限りの笑顔を彼女に向けた。
どうして紗希はあたしの傘を使わなかったんだろう。
「なんで?」
昇降口から傘をささずにかけていく紗希の姿が瞼に焼き付いて離れない。
教室に戻り志歩とこはねに「紗希と何かあった?」と尋ねても2人は「何もない」の一点張りだった。
でも、紗希の様子が妙にきにかかった。
ラインを送っても既読にならず、電話も繋がらない。
あんな土砂降りの中傘もささずに学校を飛び出すなんて信じられない。
何かがあったとしか思えない。
バイト中も紗希のことが気になって仕方がなかった。
仕事中、何度か店長に隠れてこっそりラインを確認したもののいまだに既読がつかない。
ちゃんと家に帰れているのかもわからず、不安が募っていく。
紗希と直接会って話がしたいと思い担任に住所を聞いたけど個人情報だと言われ教えてもらえなかった。
しつこく粘ると町内までは教えてくれた。
そこからどうにかして彼女の家を探し出そうも思っていたけれど、家に行く理由を探さなくてはならない。
どうしよう。なにがある。そんなことを考えていると、品出し中に紗希が送ってきたスタンプの猫とコラボしたスイーツが発売されていたことに気がついた。
そのとき、ある考えが頭をよぎった。
このスイーツをだしに紗希の家まで行ってみよう。
二十時にバイトを上がるとあたしはすぐさま紗希の住む街へとむかった。
「こんばんは。突然すみません。このあたりに天馬紗希っていう高校生が住んでいるんですけど、知ってますか?」
「えっ。天馬紗希ちゃん?あなた、名前は?どうして彼女のことを?」
ほんの少しだけ警戒したように私の顔を覗き込んだおばさんに微笑む。
すぐに否定しないということは紗希をしっているに違いない。
よかった。ついてる!!こんなすぐに紗希を知っている人と出会えるなんて!!
思わず目を輝かせる。
「あたし、望月穂波っていいます。紗希と同じクラスなんです!!家に行きたいんですけど、場所を知らなくて」
「家に?本当に……?」
「はい。ほらっ、制服も一緒です。青光高校」
「あら、本当だわ。でも、あなたのような派手な子が本当に紗希ちゃんと同じ学校なの……?」
「えっ、まじか。あたし疑われてる……?えっと、じゃあ、学生証みせます。それなら信用してもらえます?」
暗がりの中取り出した学生証をスマホのライトで照らすと、おばさんはまじまじとあたしの母と学生証を見比べたあと、納得したように頷いた。
「確かに青光高校の生徒みたいね。それで、紗希ちゃんに一体なんのようかしら?」
いまだに言葉の端々にトゲをかんじられる。おばさんも個人情報うんぬんを気にしているのだろうか。
「実は近くのコンビニでアルバイトしてて。紗希、今日ちょっと元気なかったからスイーツでも買って届けようかなって」
「こんな時間に?」
おばさんはいまだにあたしに品定めでもしているような視線をなぜかけてくる。
「バイト上がってすぐきたんです。こんな時間になっちゃって申し訳ないんですけど……」
「そうなのね」
おばさんはあたしの顔をじっと見つめたあと、
「私は高橋です。紗希ちゃんのことはよく知ってるわ。案内するからついてらっしゃい」と言って歩き出した。
ここから歩いて五分ほどの距離に紗希の家はあるらしい。
偶然にもおばさんは紗希の家の隣人だった。
手にぶら下げていた買い物袋をよいしょっと声に出して肩にかけたおばさんに、
「重そうですね。待ちましょうか?」
と尋ねると、おばさんは「そう?」というと同時に「じゃあ、いいかしら?」とあたしに買い物袋を差し出した。
「紗希ちゃんとはいつからお友達なの?」
「4月に同じクラスになってからですかねぇ。でも、前からあたしは知っていて。紗希は全然覚えてなかったみたいなんですけど。その日から友達になりたいなって思ったんです。でもなかなか話しかけるタイミングがなくて。最近はちょこちょこしゃべれるようになってきました」
といっても、あたしのほうから一方的に話しかけているだけ。
紗希はあたしのことが嫌いなのかもしれない。
そう考えると、ちょっと落ち込む。あたしは紗希が大好きだ。
だって、紗希はあたしの恩人だから。
ポケットの中をぎゅっと握り締めると温かい気持ちになる。
「紗希ともっと仲良くなりたいんです」
ハッキリそういうと、おばさんはにこりと笑った。
「あら、そう。紗希ちゃん、ようやくお友達ができたのねぇ」
「え?」
おばさんは一方的に話し始めた。
「あんなことがあったけど……よかったわよねぇ。生きていて」
「え……」
生きていてよかった?なにそれ。意味がわからない。
あたしがおばさんのいう『あんなこと』を全て知っている前提で話はどんどん進んでいく。
「中学生の時、ひどいいじめにあっていたんだってね。でもずっと1人で抱え込んで我慢してたのね。中2の夏、家のクローゼットで……ね。救急車が来たら騒然としちゃって。お母さんなんてもう取り乱して泣き叫んでて……あぁ、もうあまりにも可哀想で思い出したくもないわ」
おばさんの言葉を止めるタイミングがない。
「あのとき発見が早くて本当によかったわ。でも、いじめを苦に自殺未遂なんて……。相当追い詰められちゃってたのねぇ」
「自殺未遂……」
買い物袋を握りしめる両手に力がこもる。紗希がいじめを苦に自殺未遂をした……?
そんなこと1ミリもしらなかった。まさか、彼女にそんな過去があったなんて。
ぐるぐると紗希の顔が頭に浮かぶ。
「それから学校にも通えなくなってしばらく家に引きこもってたのよ。でも、頑張って勉強して青光高校に入学したって聞いて、私も嬉しくなってきちゃって。だけど、いつもなんだか寂しそうな顔してるから気になってて……。でも、よかった。あなたみたいな可愛らしいお友達ができたのね」
おばさんはほっとしたように目尻をさげた。
「はい、ついた。紗希ちゃんのおうちはここよ」
おばさんがゆびさした先には二階建ての洋風な造りの家があった。
ナチュラルな雰囲気の洋風塀瓦の乗ったアールの曲線の問柱にはガラス素材の【天馬】という表札がかかげられている。
玄関口まで続く曲線のアプローチの周りは芝生が敷き詰められていた。
「へぇ……素敵なおうち」
「おくさんがまめなひとでねぇ。家庭菜園とかガーデニングなんかもやってるのよ」
自分のことではないのに、なぜか高橋さんが自慢げに花をならす。
「いい家族なんだよ。紗希ちゃんのうちは」
「そんな感じがします」
「荷物、どうもありがとう。助かったわ」
高橋さんはあたしの手から荷物を取ると、にっこり笑った。
「紗希ちゃん、すごく優しい子なの」
「はい」
「でもね、あなたも優しい子よ」
「え……?」
優しい子……?あたしが?
ポカンっとするあたしを置き去りにしてたかさんが手を振って隣の家に入っていく。
放置子、いらない子、かわいそうな子,貧しい子、ネグレクトされてる子。
今まで誰かに優しい子と言われたことなんて一度もなかったような気がする。
胸の奥底から湧き上がりそうになる感情をグッと堪え、一度深呼吸すると、玄関のチャイムに指を伸ばした。
小学生の時は玄関の呼び鈴を押す瞬間が大好きだったけど、少しだけ成長した今、押すことを躊躇してしまう。
当時幼かったあたしは、温かい玄関に足を踏み入れると自分もその家族になれたように錯覚していた。
だけど、どうやったってあたしは家族にはなれない。
あたしがその家に足を踏み入れることで幸せな家族の生活が崩れてしまう。
『ほなみちゃんとは遊ぶなってお母さんに言われたの。だから、帰って』
そう言われた理由だって今はちゃんと理解できる。
グッと奥歯を噛み締めてチャイムを鳴らすと「はい」という女性の声がした。
「こんばんは!望月です。夜分遅くにすみません。紗希ちゃん、いますか?」
インターホンにはカメラがついている。きっと中のモニターであたしの顔を確認できるはずだ。
ちょっと緊張しながらいうと、「ちょっと待ってね」という言葉のあと、あっけなく玄関扉は開けられた。
「こちらはどうぞ?」
インターホンのついた門柱か玄関までは少し距離がある。
あたしはおそるおそるアプローチを歩き玄関に向かった。
「はじめまして。望月穂波です。あのっ、紗希ちゃんはいますか?」
玄関先までくると、髪を一つに束ねたエプロン姿の女性が立っていた。
紗希のお母さんだろうか。ぱっちりとした目元が紗希によく似ている。
「ごめんなさい。起こしてくるから少しリビングで待っていてくれる?どうぞ、あがって?」
「いえ!!ここで大丈夫です。あの……起こしてくるからって紗希どうしたんですか?」
「少し疲れちゃったみたいで寝てるの」
「え。寝てる?紗希、具合でも悪いんですか!?」
今日あの土砂降りの中傘も差さずにいたせいだろうか。風邪でもひいた?それとも──。
「ううん、大丈夫」
「あー、そうなんですね!!よかったぁ……」
ほっと胸を撫で下ろすと、おばさんはあたしの様子を見て少し驚いたようにみえた。
でもすぐに元の表情にもどった。
「心配してくれてありがとう。ちょっとまってね。よんでくるわ」
「いえ、寝ているなら大丈夫です。これを渡し……──」
肩にかけたバッグを手にかけると、おばさんは小さく首を振った。
「紗希も喜ぶから。ごめんね、ちょっと待っててね」
おばさんがスリッパをパタパタも鳴らして階段を駆け上がっていく。
1人玄関先に残されたあたしはぐるりと家の中に視線を走らせた。
明るい家だ。照明が明るいのではない。家の中の雰囲気がとても明るいのだ。
うちのアパートとは比べ物にならないほどの大きさの玄関や床は手入れが行き届きピカピカだ。
壁にはセンスのいい絵画が飾られ、キッチンの方からは甘い匂いが漂ってくる。
紗希のお母さんはこんな時間までエプロンをつけて何かを作っていたんだろうか。
玄関先には低いヒール靴とみがかれた紳士物の黒い革靴と紗希の靴が揃って置かれている。
仲睦まじい三人家族の絵が目に浮かぶ。
幸せを絵に描いたような過程で紗希は育ったんだろう。
2階から話し声が聞こえる。突然やってきたあたしに紗希はきっと驚くだろう。
ポケットの中のスマホがブーッブーッと音を立てて震えた。
ラインが届いたようだ。ポケットから取り出して確認する。
【母:まっくんがおこってる】
【母:今日まっくんの誕生日だから早く帰るって言ってたのにどこにいるの?】
はっとする。
そういえば今朝、今日は松田の誕生日だから早く帰ってくるようにと念を押されていたのだ。
毎年、松田の誕生日は我が家で祝うことになっていた。
祝うと言っても母が買ってきた安物のケーキを食べ、ビールをたらふく飲むだけ。
2人は酒を飲み交わしてどんちゃん騒ぎをし、あたしは翌日その後片付けに追われる。
べつにあたしがいようがいまいが構わないはずなのに、母も松田もなぜかあたしを巻き込もうとする。
勝手にやっても構わないのに。あんな男の誕生日を祝う義理あたしにはない。
【ごめん。まだバイト】
適当に返信してからポケットの中にスマホを押し込んだ時、階段から紗希がゆっくりとした足取りで降りてきた。
部屋着だからいつもと雰囲気が違う。目が合うと紗希はほんの少しだけ驚いたように目を見開いた。
『あんなことがあったけど……よかったわねぇ。生きていて』
お隣の高橋さんの言葉がよみがえる。
あたしは紗希を怖がらせないようにできる限りの笑顔を彼女に向けた。