また、君と笑顔で会える日まで。
望月穂波side
「穂波ちゃん、入るわね」
「あ、はい!」
湯船に浸かったまま返事を返すと、おばさんはバタバタと慌ただしく動き回り脱衣所を出ていった。
──気持ちがいい。
こんなにしっかり湯船につかったのはいつぶりだろう。最近では暑い日が続いていたから、シャワーだけですませていた。
浴槽の中のお湯は、入浴剤が入れられているのか、白く濁り、心を落ち着かせる甘い匂いをしていた。
しばらく肩まで浸かったあと、浴槽を出て浴槽の鏡の前に立つ。
湯気で曇ってしまった鏡を掌で擦る。
鏡に映し出されたのは全身あざだらけのあばら骨の浮いた青白い顔をしたあたしだった。
いたむ肋骨付近は、いまだに青紫色のあざが色濃く残っていた。
こんなにも痩せてしまっていたのか。
ここ最近測っていなかったから気づかなかったけれど、五キロ程度は落ちてしまったかもしれない。
浴室の椅子に座り、小さく息を吐く。
紗希に押し切られる形になってしまったけど、突然やってきてお風呂に入るなんて常識はずれもいいところだ。
きっとニコニコ笑顔だった紗希のお母さんも今頃紗希に『もうあんな子連れてこないで!』と怒っているかもしれない。
他人に自分の家の状況や家庭環境を知られるのが嫌だった。
知られて幻滅されたくない。知られて同情されたくない。知られて見下されたくない。
いつだって虚勢を張って自分を偽って惨めな気持ちにならないように必死になって自分を守っていた。
思い返せばいつもそんなことばかりしていた気がする。
大人の目を気にしてばかりいる可愛げのない子供だっただろう。
子供の頃から周りの変化には敏感になってしまったし、気づかなくていいことも気づいてしまう。
──やっぱりこんなの迷惑でしかない。
帰ろう。あたしがいるべき場所はここではない。
子供の頃は人の家が大好きだった。自分もその世界の住人になれたような気分になって幸せを頂いて帰れるから。
だけど、少し成長して気づいた。幸せをもらったような気持ちになれるのは一瞬で、玄関扉を開けて一歩外に出た瞬間その幸せ以上に惨めな気持ちになるということを。
だけど、帰ると言っても帰る場所がない。
もうあの家はあたしの家ではなくなってしまった。
母と松田が呑み散らかし、時に激しくケンカをし、時に信じられないぐらいの激しさで愛し合うだけに存在する家。
あたしの居場所はどこにもない。
普通の人ならば用がなくなれば自然と足は家へと向かうことだろう。
でも、あたしにはその家がない。あるけどないものだ。
帰る場所がないということの心細さは到底言葉では表せない。
最近、松田は毎日イライラしていて手がつけられない。
昼夜問わず飲み歩き、泥酔(でいすい)して悪態をつき、さらに暴力に発展する。
以前は他人から見える場所に暴力を振るうことはなかったのに、最近はお構いなしに手当たり次第あたしに暴力を加える。
本音を言えばあんな家にもう帰りたくない。
命の危険すら感じるぐらいにエスカレートしている。
でも、帰りたくないなどとワガママは言えない。
「あ……」
バスルームを出ると制服とYシャツがなかった。
そういえばさっきおばさんが脱衣所に入ってきて何かをしていた。
濡れたままの制服を着てすぐに帰ろうとしていたのにもくろみに崩れた。
脱衣所にはドライヤーやヘアブラシ、化粧水や乳液などが綺麗にそろえて置かれていた。
ホテルのタオルのようにふかふかなタオルで体についた水滴を拭ってから紗希の新品の下着をつけ、紗希のTシャツとハーフパンツを着て脱衣所を出た。
着痩せするタイプなんだろうか。紗希のブラジャーはあたしには少しだけ大きくて少しパカパカしていた。
Tシャツは柔軟剤の良い匂いがした。
「あのっ」
脱衣所を出てリビングに向かい恐る恐る中にいる紗希のお母さんに声をかける。
「あらっ、もうでたの?廊下は暑いでしょ?中に入って」
クーラーの効いた涼しい室内に入って中を見渡す。
「あれ、紗希はどこですか?」
「うん。ちょっと出かけててすぐに帰ってくると思う。何か飲む?お茶でいい?」
「いえ!大丈夫です!!!」
「そんなに遠慮しないで」
おばさんはくすくすと笑いながらキッチンの奥へ消えていく。
それにしてもいい家だ。広いリビングルームは綺麗に整頓され手入れが行き届いた床がピカピカに光っている。
センスのいい小物が所々に置かれ、緑の観葉植物がいいアクセントになっている。
うちとは大違いだな。洋服や缶ビールが床に散乱し、足の踏み場もないうちには。
部屋の壁には紗希の幼い頃の写真が飾られていた。
公園の滑り台であどけない笑顔を浮かべながら降りてくる紗希。七五三で少し硬い面持ちで着物を着る紗希。小学校入学式の紗希。
どの紗希もとても幸せそうでなんだかこちらまで嬉しくなってきた。
親に愛されて育ったからこそ、今の紗希がいるんだろう。
あたしは親に愛されていたんだろうか?ほんの僅かでも愛を貰ったんだろうか。
親と言うものは誰でも無償の愛を子供に注ぐものだと思われているけど、例外はある。
自分のことを犠牲にすることをせず、子供を犠牲にする。
それどころか子供を自分のために利用しようとする。
そんな親今すぐに捨ててしまえばいいと分かっているのにそれが出来ないから厄介なのだ。
あらに娘を愛する気がなくても、それでもまだ子供は親を、母親を求めてしまう。
もしかしたら、いつかは、そんなふうに言い訳をして母親を切り捨てることはできないのだ。
「座って?」
写真に魅入っている間におばさんはリビングのローテーブルの上にお茶を用意してくれていた。
「ありがとうございます」
お礼を言ってからソファに腰掛けて麦茶を口に含む。
遠慮はしたものの風呂上がりで喉は乾いていた。ごくごくと喉を鳴らして飲むあたしを見ておばさんはすぐにお代わりをもってきてくれた。
「なんかすみません……」
「いいのよ、気にしないで」
にっこりと笑った紗希のお母さんがローテーブルを挟むようにあたしの斜め横のスツールに腰掛けた。
特に何かを言うわけでもなくそこにすわっている紗希のお母さんになにか話しかけようとする。
てわも、何を言ったらいいのか分からなくてあたしは麦茶をちびちび飲んだ。
人見知りでもないし、誰に対しても積極的にいけるはずのあたしがなぜ……?
と、自分自身に自問自答する。
そのとき、ふと紗希のお母さんの腕の傷に気がついた。
両腕にまんべんなくあるその傷はあたしのお腹にあるものと同じに見えた。
まさか、そんなはずがないだろう。だけど、そうみえる。
「腕、気になる?」
あたしの視線に気がついたのかおばさんは腕を指先で摩った。
「これね、昔母親に煙草を押し付けられてできた傷なのよ」
「え……?」
目の前が霞み、上手く声が出せない。固まるあたしにおばさんは続けた。
「腕だけじゃなくて見えない部分にもあるの。火傷みたいなものだから時がたっても消えなくて。驚かせてごめんなさいね」
「い、いえ」
かぶりを振る。信じられなかった。幸せな家庭を絵に書いたような紗希のお母さんが虐待されていたなんて。そんなこと信じられるはずもなかった。
でも、どうしてこんな話をあたしに……?
ふとハーフパンツから覗く自分のふくらはぎに気がついた。
青アザがいくつも出来ている。ハッとして顔を持ち上げる。
もしかしたら悟ったのかもしれない。
あたしも同じことをされていると──。
「あっ、あの……」
聞いたいことが溢れすぎて言葉にならない。
今、その母親はどうしているのか。他に何をされたのか。どうやって結婚したのか。どうやって家庭を築いたのか。どのように紗希を愛したのか。どうやって育てたのか。そして、どうやって今の幸せを気づいたのか。
「そのお母さんは今どこに……?」
「小3で母親と引き離されてから1度も会っていないし、わからないの。でも、未だに思い出すのよ。あんなに酷いことをされたのに不思議ね。99%はいやな思い出なのに残りの1%に幸せだったことを記憶しているの」
噛み締めるように言ったその言葉にきっと嘘はないだろう。
「その当時の私は世界中の不幸を全部自分が押し付けられたと思って絶望していたの。これから先もずっと不幸は続くって思ってた。もちろん、あの時は子供でまだ無力だったし一人で生きていくことが出来なかったのもあるけど。幸い祖父母に引き取られて何とか暮らせていたけどずっと母からの虐待が心の傷になっていたの」
「その傷は……もう癒えたんですか?」
「残念ながら、綺麗さっぱりっていうわけにはいかない。体にもまだ跡はあるし、フラッシュバックが怒ったりすることもある」
やっぱりそう簡単には虐待されたトラウマは消えたりしないようだ。
「紗希を産むまでは私も母親と同じことをてしまったらどうしようって心配していたの。でもね、親バカって思われちゃうかもしれないけど生まれてきた紗希は本当に可愛くて。そのとき、思ったの。私が子供の頃に親にしてもらいたかったことを娘に全部してあげようって」
紗希のお母さんは子供の頃の話をしてくれた。
両親が離婚したあと、小さな平家の借家暮しで母親は週に何度かしか戻らず帰ってくると暴力をふるったらしい。
口汚い言葉で罵り、虐げ、煙草の火を全身に押付け泣き叫ぶ姿を見て笑っていたらしい。
男との関係が上手くいかなくなると、その鬱憤をむすめで晴らす。幼稚で短絡的で心の弱い人間だった。
「子供って何をされても親を庇うものなのよね。私がそうだったの。自分が悪い子だからお母さんは家に帰ってきてくれないとすら思った」
全く同じだった。あたしも同じことを考えていた。
「母と離れたあと、思ったに。自分の人生は自分だけのものだって。しかも、1度しかない。それなら自分のためだけに生きていこうってきめたの」
「自分の人生は……自分だけのもの……」
「そう。過去は変えられないけど未来は変えられる。自分の思いや考え方次第でどんな自分にもなれる。虐待さていた時の私はどん底にいたから、もうこれ以上落ちることはない。これからは這い上がっていくだけだって自分を励ましたの」
紗希のお母さんが鼻をすする。
「今……幸せですか?」
そう尋ねると、紗希のお母さんはにっこりと微笑んだ。
「もちろん。これからももっともっと合わせになるつもりよ」
その言葉に胸が熱くなる。
あたしとおなじような経験をしている人がこんな身近にいたなんて。
あたしも紗希のお母さんみたいになれるかな……?
こんなふうにキラキラと眩しい人に。
「幸せ」って胸を張って言えるようになれるのかな……?
「お母さんの過去……紗希も知ってるんですか?」
「えぇ。全部知ってるわ」
「紗希は……紗希はなんて?」
「お母さんにどんな過去があったって、お母さんはお母さんだからって。そう言ってくれた」
紗希らしいと思った。
もしも、もしも、あたしが今の状況を紗希に話したら……紗希は受け入れてくれるのだろうか。
こんなあたしのことを。
……なんて。
きっとそんなこと考えるまでもない。
紗希は受け入れてくれる。彼女ならきっと……──。
「今日は泊まっていくよね?」
「……へ?」
泊まる?あたしが?紗希の家に?
「い、いえ!!そんな突然泊まるとか迷惑かけられない──」
「穂波ちゃんは迷惑なんかじゃない。紗希にとって穂波ちゃんは大切なお友達なの。時には誰かに甘えたっていいじゃない。人に頼ることも時には大事なことよ。自分のことももっと大切にしてあげて」
喉の奥がひゅっと詰まった。
なんだか最近、涙腺がバカになってしまったのかもしれない。
目頭が熱くなり、ぐっと奥歯を噛むと同時に玄関の扉が開いた。
「ただいま!!」
紗希の声がする。
波が溢れないように顔を持ち上げると、紗希のお母さんがにっこり笑った。
その優しい笑顔につられて微笑むと、鼻の奥がつんっといたんだ。
「穂波ちゃん、入るわね」
「あ、はい!」
湯船に浸かったまま返事を返すと、おばさんはバタバタと慌ただしく動き回り脱衣所を出ていった。
──気持ちがいい。
こんなにしっかり湯船につかったのはいつぶりだろう。最近では暑い日が続いていたから、シャワーだけですませていた。
浴槽の中のお湯は、入浴剤が入れられているのか、白く濁り、心を落ち着かせる甘い匂いをしていた。
しばらく肩まで浸かったあと、浴槽を出て浴槽の鏡の前に立つ。
湯気で曇ってしまった鏡を掌で擦る。
鏡に映し出されたのは全身あざだらけのあばら骨の浮いた青白い顔をしたあたしだった。
いたむ肋骨付近は、いまだに青紫色のあざが色濃く残っていた。
こんなにも痩せてしまっていたのか。
ここ最近測っていなかったから気づかなかったけれど、五キロ程度は落ちてしまったかもしれない。
浴室の椅子に座り、小さく息を吐く。
紗希に押し切られる形になってしまったけど、突然やってきてお風呂に入るなんて常識はずれもいいところだ。
きっとニコニコ笑顔だった紗希のお母さんも今頃紗希に『もうあんな子連れてこないで!』と怒っているかもしれない。
他人に自分の家の状況や家庭環境を知られるのが嫌だった。
知られて幻滅されたくない。知られて同情されたくない。知られて見下されたくない。
いつだって虚勢を張って自分を偽って惨めな気持ちにならないように必死になって自分を守っていた。
思い返せばいつもそんなことばかりしていた気がする。
大人の目を気にしてばかりいる可愛げのない子供だっただろう。
子供の頃から周りの変化には敏感になってしまったし、気づかなくていいことも気づいてしまう。
──やっぱりこんなの迷惑でしかない。
帰ろう。あたしがいるべき場所はここではない。
子供の頃は人の家が大好きだった。自分もその世界の住人になれたような気分になって幸せを頂いて帰れるから。
だけど、少し成長して気づいた。幸せをもらったような気持ちになれるのは一瞬で、玄関扉を開けて一歩外に出た瞬間その幸せ以上に惨めな気持ちになるということを。
だけど、帰ると言っても帰る場所がない。
もうあの家はあたしの家ではなくなってしまった。
母と松田が呑み散らかし、時に激しくケンカをし、時に信じられないぐらいの激しさで愛し合うだけに存在する家。
あたしの居場所はどこにもない。
普通の人ならば用がなくなれば自然と足は家へと向かうことだろう。
でも、あたしにはその家がない。あるけどないものだ。
帰る場所がないということの心細さは到底言葉では表せない。
最近、松田は毎日イライラしていて手がつけられない。
昼夜問わず飲み歩き、泥酔(でいすい)して悪態をつき、さらに暴力に発展する。
以前は他人から見える場所に暴力を振るうことはなかったのに、最近はお構いなしに手当たり次第あたしに暴力を加える。
本音を言えばあんな家にもう帰りたくない。
命の危険すら感じるぐらいにエスカレートしている。
でも、帰りたくないなどとワガママは言えない。
「あ……」
バスルームを出ると制服とYシャツがなかった。
そういえばさっきおばさんが脱衣所に入ってきて何かをしていた。
濡れたままの制服を着てすぐに帰ろうとしていたのにもくろみに崩れた。
脱衣所にはドライヤーやヘアブラシ、化粧水や乳液などが綺麗にそろえて置かれていた。
ホテルのタオルのようにふかふかなタオルで体についた水滴を拭ってから紗希の新品の下着をつけ、紗希のTシャツとハーフパンツを着て脱衣所を出た。
着痩せするタイプなんだろうか。紗希のブラジャーはあたしには少しだけ大きくて少しパカパカしていた。
Tシャツは柔軟剤の良い匂いがした。
「あのっ」
脱衣所を出てリビングに向かい恐る恐る中にいる紗希のお母さんに声をかける。
「あらっ、もうでたの?廊下は暑いでしょ?中に入って」
クーラーの効いた涼しい室内に入って中を見渡す。
「あれ、紗希はどこですか?」
「うん。ちょっと出かけててすぐに帰ってくると思う。何か飲む?お茶でいい?」
「いえ!大丈夫です!!!」
「そんなに遠慮しないで」
おばさんはくすくすと笑いながらキッチンの奥へ消えていく。
それにしてもいい家だ。広いリビングルームは綺麗に整頓され手入れが行き届いた床がピカピカに光っている。
センスのいい小物が所々に置かれ、緑の観葉植物がいいアクセントになっている。
うちとは大違いだな。洋服や缶ビールが床に散乱し、足の踏み場もないうちには。
部屋の壁には紗希の幼い頃の写真が飾られていた。
公園の滑り台であどけない笑顔を浮かべながら降りてくる紗希。七五三で少し硬い面持ちで着物を着る紗希。小学校入学式の紗希。
どの紗希もとても幸せそうでなんだかこちらまで嬉しくなってきた。
親に愛されて育ったからこそ、今の紗希がいるんだろう。
あたしは親に愛されていたんだろうか?ほんの僅かでも愛を貰ったんだろうか。
親と言うものは誰でも無償の愛を子供に注ぐものだと思われているけど、例外はある。
自分のことを犠牲にすることをせず、子供を犠牲にする。
それどころか子供を自分のために利用しようとする。
そんな親今すぐに捨ててしまえばいいと分かっているのにそれが出来ないから厄介なのだ。
あらに娘を愛する気がなくても、それでもまだ子供は親を、母親を求めてしまう。
もしかしたら、いつかは、そんなふうに言い訳をして母親を切り捨てることはできないのだ。
「座って?」
写真に魅入っている間におばさんはリビングのローテーブルの上にお茶を用意してくれていた。
「ありがとうございます」
お礼を言ってからソファに腰掛けて麦茶を口に含む。
遠慮はしたものの風呂上がりで喉は乾いていた。ごくごくと喉を鳴らして飲むあたしを見ておばさんはすぐにお代わりをもってきてくれた。
「なんかすみません……」
「いいのよ、気にしないで」
にっこりと笑った紗希のお母さんがローテーブルを挟むようにあたしの斜め横のスツールに腰掛けた。
特に何かを言うわけでもなくそこにすわっている紗希のお母さんになにか話しかけようとする。
てわも、何を言ったらいいのか分からなくてあたしは麦茶をちびちび飲んだ。
人見知りでもないし、誰に対しても積極的にいけるはずのあたしがなぜ……?
と、自分自身に自問自答する。
そのとき、ふと紗希のお母さんの腕の傷に気がついた。
両腕にまんべんなくあるその傷はあたしのお腹にあるものと同じに見えた。
まさか、そんなはずがないだろう。だけど、そうみえる。
「腕、気になる?」
あたしの視線に気がついたのかおばさんは腕を指先で摩った。
「これね、昔母親に煙草を押し付けられてできた傷なのよ」
「え……?」
目の前が霞み、上手く声が出せない。固まるあたしにおばさんは続けた。
「腕だけじゃなくて見えない部分にもあるの。火傷みたいなものだから時がたっても消えなくて。驚かせてごめんなさいね」
「い、いえ」
かぶりを振る。信じられなかった。幸せな家庭を絵に書いたような紗希のお母さんが虐待されていたなんて。そんなこと信じられるはずもなかった。
でも、どうしてこんな話をあたしに……?
ふとハーフパンツから覗く自分のふくらはぎに気がついた。
青アザがいくつも出来ている。ハッとして顔を持ち上げる。
もしかしたら悟ったのかもしれない。
あたしも同じことをされていると──。
「あっ、あの……」
聞いたいことが溢れすぎて言葉にならない。
今、その母親はどうしているのか。他に何をされたのか。どうやって結婚したのか。どうやって家庭を築いたのか。どのように紗希を愛したのか。どうやって育てたのか。そして、どうやって今の幸せを気づいたのか。
「そのお母さんは今どこに……?」
「小3で母親と引き離されてから1度も会っていないし、わからないの。でも、未だに思い出すのよ。あんなに酷いことをされたのに不思議ね。99%はいやな思い出なのに残りの1%に幸せだったことを記憶しているの」
噛み締めるように言ったその言葉にきっと嘘はないだろう。
「その当時の私は世界中の不幸を全部自分が押し付けられたと思って絶望していたの。これから先もずっと不幸は続くって思ってた。もちろん、あの時は子供でまだ無力だったし一人で生きていくことが出来なかったのもあるけど。幸い祖父母に引き取られて何とか暮らせていたけどずっと母からの虐待が心の傷になっていたの」
「その傷は……もう癒えたんですか?」
「残念ながら、綺麗さっぱりっていうわけにはいかない。体にもまだ跡はあるし、フラッシュバックが怒ったりすることもある」
やっぱりそう簡単には虐待されたトラウマは消えたりしないようだ。
「紗希を産むまでは私も母親と同じことをてしまったらどうしようって心配していたの。でもね、親バカって思われちゃうかもしれないけど生まれてきた紗希は本当に可愛くて。そのとき、思ったの。私が子供の頃に親にしてもらいたかったことを娘に全部してあげようって」
紗希のお母さんは子供の頃の話をしてくれた。
両親が離婚したあと、小さな平家の借家暮しで母親は週に何度かしか戻らず帰ってくると暴力をふるったらしい。
口汚い言葉で罵り、虐げ、煙草の火を全身に押付け泣き叫ぶ姿を見て笑っていたらしい。
男との関係が上手くいかなくなると、その鬱憤をむすめで晴らす。幼稚で短絡的で心の弱い人間だった。
「子供って何をされても親を庇うものなのよね。私がそうだったの。自分が悪い子だからお母さんは家に帰ってきてくれないとすら思った」
全く同じだった。あたしも同じことを考えていた。
「母と離れたあと、思ったに。自分の人生は自分だけのものだって。しかも、1度しかない。それなら自分のためだけに生きていこうってきめたの」
「自分の人生は……自分だけのもの……」
「そう。過去は変えられないけど未来は変えられる。自分の思いや考え方次第でどんな自分にもなれる。虐待さていた時の私はどん底にいたから、もうこれ以上落ちることはない。これからは這い上がっていくだけだって自分を励ましたの」
紗希のお母さんが鼻をすする。
「今……幸せですか?」
そう尋ねると、紗希のお母さんはにっこりと微笑んだ。
「もちろん。これからももっともっと合わせになるつもりよ」
その言葉に胸が熱くなる。
あたしとおなじような経験をしている人がこんな身近にいたなんて。
あたしも紗希のお母さんみたいになれるかな……?
こんなふうにキラキラと眩しい人に。
「幸せ」って胸を張って言えるようになれるのかな……?
「お母さんの過去……紗希も知ってるんですか?」
「えぇ。全部知ってるわ」
「紗希は……紗希はなんて?」
「お母さんにどんな過去があったって、お母さんはお母さんだからって。そう言ってくれた」
紗希らしいと思った。
もしも、もしも、あたしが今の状況を紗希に話したら……紗希は受け入れてくれるのだろうか。
こんなあたしのことを。
……なんて。
きっとそんなこと考えるまでもない。
紗希は受け入れてくれる。彼女ならきっと……──。
「今日は泊まっていくよね?」
「……へ?」
泊まる?あたしが?紗希の家に?
「い、いえ!!そんな突然泊まるとか迷惑かけられない──」
「穂波ちゃんは迷惑なんかじゃない。紗希にとって穂波ちゃんは大切なお友達なの。時には誰かに甘えたっていいじゃない。人に頼ることも時には大事なことよ。自分のことももっと大切にしてあげて」
喉の奥がひゅっと詰まった。
なんだか最近、涙腺がバカになってしまったのかもしれない。
目頭が熱くなり、ぐっと奥歯を噛むと同時に玄関の扉が開いた。
「ただいま!!」
紗希の声がする。
波が溢れないように顔を持ち上げると、紗希のお母さんがにっこり笑った。
その優しい笑顔につられて微笑むと、鼻の奥がつんっといたんだ。