また、君と笑顔で会える日まで。
育児放棄
望月穂波side
父はあたしが7歳の頃に病死した。
それまで暮らしていた一軒家を引き払い、あたしは母と共に父方の祖父母の家の近くのアパートで暮らし始めた。
母は家のことをやらない人間だった。
家の中は常に物で溢れかえり、整理整頓という言葉には程遠いありさまだ。
時々、父方の祖母が家へやってきては片付けをしてくれていた。
でも、母はそれをとにかく嫌がった。
何かがあった時のためにと祖母に渡しておいた合鍵を取り上げ、祖母が家に出入りしないようにした。
母の両親は母が幼い頃に離婚し、母親が男と駆け落ちして捨てられた母は施設で育った。
身寄りのない母のことを案じた父方の祖父母が同居を提案しても母は頑なに首を縦には振らなかった。
それでも祖母は母や孫のあたしのことを気にかけ度々母との約束を破り家に入っては片付けやら洗濯やら料理やらと手を焼いた。
母はその行為にとうとう堪忍袋の緒が切れたようだ。
祖父母に内緒で夜中のうちに引っ越しをすると決め、祖父母の家から遠く離れた縁もゆかりもない南関東のアパートに引っ越した。
その時、あたしは小学3年生だった。
友達や祖父母と突然引き離されたことはショックだったものの母と離れ離れになるわけではないと自分に言い聞かせて耐えることにした。
でも、今思えばあの一件であたしの人生はがらりと変わってしまった。地獄への入り口はすぐそこまで迫っていたのだ。
「まずは仕事を探さなきゃね」
母はなかなか役所に届出を出してくれずしばらくの間あたしは学校に通うことすらできなかった。
その間、あたしはずっと狭いアパートの中に一人でいた。
家の外に出て行くことも許されずほとんど監禁状態だ。
お腹が空けば冷蔵庫の中の麦茶を飲んで空腹を満たしていた。
当時、それがおかしいことだとは一ミリも思わなかった。
父はいないけれど、大好きな母はいる。あたしとの生活を守るために必死に仕事を探してくれている母に感謝までした。
あたしが部屋の中でお腹を空かせて夜遅くまで母を待っていた時、母が男と楽しい時間を過ごしていることなど想像もしていなかったから。
その日、珍しく母は早起きし洗面台の大きな鏡の前で鼻歌交じりに髪の毛を巻いていた。
香水の甘酸っぱい匂い。この匂いがあたしは大っ嫌いだ。
だって、この香水をつける時、母は数日間家に帰ってこない。
「お母さん、これ」
「──学童?それ、お金かかるよね?穂波、家で待ってられるでしょ」
学校へ通い始めてすぐあたしは担任の先生からプリントを渡された。
それを母に差し出すと、母は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
四年生までの生徒で親が仕事などの都合で家に帰るのが遅い場合、学校に隣接する学童教室で子どもを預かってくれるというものだ。
母はプリントをちらりと見て洗濯機の上に放り投げた。
「三年生の子で親が仕事してる子は学童に通ってるの。だから、あたしも行きたい」
放課後、一人で家にいるのは少し不安だった。それに母はいつも日付が変わる頃に家に帰ってくる。
子供ながらに学童に通えば、母が夜遅くなる前に仕事を切り上げて学校に迎えにきてくれるかもしれないという淡い期待もあった。
「無理よ。お金もかかるし。お迎えも学校まででしょ!?しかも、18時までに迎えに行かなきゃいけないなんてありえない」
「でも、お母さん帰り遅いし家に一人でいるのは不安なの」
「だったら、放課後、学童に行ってない子と遊んだらどう?家に遊びに行ったらいいじゃない」
「うん……」
「その子のいえに18時までいて帰ってきて宿題やったりしてたらあっという間にお母さん帰ってくるから。ねっ、それでいいでしょ」
「うん……」
「あ、でも友達をうちには絶対に連れてこないでね。それだけは約束して。お母さん、他人の子が家に入ってくるのとかは無理だから」
「……分かった」
「穂波は偉いわ。ちゃんとお母さんのいうこと聞けるのよね」
鏡越しに母が微笑む。
「あっ、お母さん。それとさ……アイロンが欲しいんだ。買ってくれない?」
母の機嫌がいいタイミングで切り出した。
「なんで?アイロン?そんなものいらないでしょ」
「給食当番の白衣はアイロンしなくちゃいけないんだって。クシャクシャだと次使う子が可哀想だからアイロンしてきてって先生が言ってたの」
「……ハァ!?なんでよ。そんなことを言うなら先生がかけてあげたらいいじゃない。そんなの強制されることじゃないでしょ」
「でも……」
こうなってしまったら母は首を絶対に縦に振らない。
いろいろな角度から鏡の中の自分の姿を確認している母にそっと問いかける。
「今日、帰ってくる?」
「なんで?」
「お母さん、帰ってくるよね?」
母はため息をつくと、まくしたてるように言った。
「あのねぇ、穂波。お母さん、遊んでるわけじゃないのよ。これはお仕事なの。穂波が美味しいご飯を食べられるのは誰のおかげ?考えてみて。こうやって何不自由なく暮らせてるのはお母さんのおかげでしょ?もう穂波は三年生でしょ。自分のことは自分でできるようになりなさい。お母さんが数日いないぐらいでそんな暗い顔しないの」
母の言葉でハッキリした。母は数日間、家を留守にするようだ。
「でも……」
「あっ、行かなくちゃ。新幹線に乗り遅れちゃう!!」
ヘアアイロンのスイッチを切り部屋の中を慌ただしく走り回る母はなぜかとても楽しそうだ。
洗濯機の上のプリントが床に落ち、母はそれをスリッパで踏んだ。
「あぁ、やだ。なんか踏んじゃった。穂波、あとで掃除しておいてね!」
そのプリントを足で蹴飛ばすと母は上機嫌なまま黒いエナメルのチェーンバッグを肩にかけた。
「お母さん……!」
玄関先で腰をかがめて高いヒールに足を入れた母のシャツをキュッと掴む。
行かないで。おねがいだから、置いてかないで。
一人は寂しいよ。夜は暗くて怖いよ。だからお願い。
──行かないで。
「そんな暗い顔しないの。穂波、笑顔よ。にっこり笑うの。笑えば幸せになれるんだから」
「……そうなの?」
「そうよ。どんなに辛くても悲しくても笑顔でいるの。泣いちゃダメ。泣いたら幸せがふわって逃げちゃう。だから、笑いなさい。幸せになりたいなら笑っていなさい」
「うん……」
「じゃあ、行ってくるから!またね〜!」
母が家を出てから帰ってくるまでの3日間。あたしの胃の中に入ったのは学校の給食と家にあったスナック菓子だけだった。
授業中もぐーぐーのお腹が鳴って授業に集中できず、頭痛までしてきた。
母から連絡は一切ないし、2日後にあった親子レクレーションには母だけが来なかった。
そんなのはどうだってよかった。正直、一人でいることには慣れていたから。
ただ、3日後にべろべろに酔っ払って家に帰ってきた母が3日間の愚痴をまき散らしたことにあたしは呆れと絶望に打ちひしがれた。
「でさ、アイツが子持ちは嫌だって言うのよ。まぁ、あたしもいってなかったけどさぁ、そこらの独身女よりあたしの方が絶対に美人だ思うのよ。ねぇ、穂波だってそう思うでしょ?」
母の話から察するに、旅行の最終日に男に子持ちということをカミングアウトしそれを理由に振られてしまったようだ。
「あーあぁ、穂波なんて産まなければよかった。そしたら、あたし、幸せになれたのに」
「お母さん、そんなこと言わないでよ」
「うえっ……なんか気持ち悪い……。うぅっ」
床に吐瀉物をまき散らして寝転ぶ母を介抱しながらあたしは笑った。
母が誰かと一緒に数時間前に口にした一度は胃に入ったドロドロの何かが手についた。
薄汚れてしまった自分の手をぼんやりと眺める。
ああ、あたしって一体なんなんだろう。自分の存在意義がわからない。いや、むしろ一度だって分かったことはない。ただ無常な気持ちが募っていく。
なんとか母をベッドに寝かせるとどっと疲れた。
仕事だと家を出て行ったのはやっぱり嘘だったのだ。
本当は母を罵って怒りをぶつけたかったけれど、それはできなかった。
もうほとんど意識がない中で母は男の名前を繰り返して涙を流す。
その日。あたしは幼いながらに気づいてしまった。
あたしは母の一番ではないし、特別な人間でも必要とされている人間でもないと。
あたしにとってあの頃の一番は母だったし、どんなに酷い扱いを受けても母はあたしにとって必要で特別で大切な人間だった。
母がいなければあたしは一人で生きていくことも叶わない。
お金だってない。ご飯だって一人で食べるのには限界があるし、身の回りのことだって完璧になんてできない。
「産まなければよかったなんて、言わなくてもいいのに」
本当は辛くて泣きたかったけど、笑った。幸せになりたかったから。
もしかしたらまだ訪れていない幸せがふわっと逃げてしまわないように……。
母の言いつけの通り学童に入らず、放課後は友達の家で過ごす日が多くなった。
でも、自分から『行きたい』と主張したことはなかった。それはしてはいけないことだと幼いながらに気づいていたのかもしれない。
『おいでよ』と誘われると必ずその誘いには乗ったけれど、自分の家に誰かを上がらせたことはなかった。
母が嫌がったからだ。でも結局、しばらくするとあたしは『放置子』と呼ばれて親の間で疎ましい存在になってしまったようだ。
その噂はたちまちクラス中に広がりあたしと一緒に遊んでくれる子は誰一人としていなくなってしまった。
悲しかったけれど、それも仕方がないかもしれない。
毎度家に遊びに来られたら迷惑だと感じる親もいるだろう。
それならばと『家じゃなくて公園で遊ぼうよ』と友達にこえをかけたけれどそれも無駄だった。
『ほなみちゃん、お菓子持ってこられるの?公園で遊ぶ時みんな家からお菓子持ってきて食べるの』
そう言われてあたしは首を縦に振ることができなかった。お菓子を買うお小遣いもないし、家にお菓子もない。
黙っていると友達は追い打ちをかけるように言った。
『人の家に遊びに行く時もお菓子とかなんか持ってくるんだよ?うちのお母さんが言ってたよ。ほなみちゃんは一度も持ってきたことがないって。靴も揃えないし、お邪魔しますも言えない。親も常識がなければ子供も常識がないって。だから、ほなみちゃんとは遊べない』
晴天の霹靂だった。
他人の家に遊びに行く時に手土産を持っていくということすら知らなかった。
もちろん、人の家に上がったら靴を揃えることも。
お邪魔します、なんて言ったこともない。
今思えば母はあたしに何も教えてくれなかった。
生きて行くうえで大切なこと、いや、当たり前のことすらも何も。
もしかしたら、教えなかったのではなく母も知らなかったのかもしれない。
急に恥ずかしくなった。
あまりに無知な自分が恥ずかしくてあたしは翌日、学校の図書室で何冊もの本を借りた。
小学生で覚えておきたい教養や身の回りのことなどありとあらゆる本を読み漁った。
子供は親の背中を見て育つ、ということわざも本の中で知った。
母の背中を見ていたら自分はきっとダメな人間になってしまう。
だから、必死に本を読み、勉強をした。
周りの人間に迷惑をかけないように、常識はずれのことをしないように、放置子などと陰で噂されないように。
あたしは必死だった──。
父はあたしが7歳の頃に病死した。
それまで暮らしていた一軒家を引き払い、あたしは母と共に父方の祖父母の家の近くのアパートで暮らし始めた。
母は家のことをやらない人間だった。
家の中は常に物で溢れかえり、整理整頓という言葉には程遠いありさまだ。
時々、父方の祖母が家へやってきては片付けをしてくれていた。
でも、母はそれをとにかく嫌がった。
何かがあった時のためにと祖母に渡しておいた合鍵を取り上げ、祖母が家に出入りしないようにした。
母の両親は母が幼い頃に離婚し、母親が男と駆け落ちして捨てられた母は施設で育った。
身寄りのない母のことを案じた父方の祖父母が同居を提案しても母は頑なに首を縦には振らなかった。
それでも祖母は母や孫のあたしのことを気にかけ度々母との約束を破り家に入っては片付けやら洗濯やら料理やらと手を焼いた。
母はその行為にとうとう堪忍袋の緒が切れたようだ。
祖父母に内緒で夜中のうちに引っ越しをすると決め、祖父母の家から遠く離れた縁もゆかりもない南関東のアパートに引っ越した。
その時、あたしは小学3年生だった。
友達や祖父母と突然引き離されたことはショックだったものの母と離れ離れになるわけではないと自分に言い聞かせて耐えることにした。
でも、今思えばあの一件であたしの人生はがらりと変わってしまった。地獄への入り口はすぐそこまで迫っていたのだ。
「まずは仕事を探さなきゃね」
母はなかなか役所に届出を出してくれずしばらくの間あたしは学校に通うことすらできなかった。
その間、あたしはずっと狭いアパートの中に一人でいた。
家の外に出て行くことも許されずほとんど監禁状態だ。
お腹が空けば冷蔵庫の中の麦茶を飲んで空腹を満たしていた。
当時、それがおかしいことだとは一ミリも思わなかった。
父はいないけれど、大好きな母はいる。あたしとの生活を守るために必死に仕事を探してくれている母に感謝までした。
あたしが部屋の中でお腹を空かせて夜遅くまで母を待っていた時、母が男と楽しい時間を過ごしていることなど想像もしていなかったから。
その日、珍しく母は早起きし洗面台の大きな鏡の前で鼻歌交じりに髪の毛を巻いていた。
香水の甘酸っぱい匂い。この匂いがあたしは大っ嫌いだ。
だって、この香水をつける時、母は数日間家に帰ってこない。
「お母さん、これ」
「──学童?それ、お金かかるよね?穂波、家で待ってられるでしょ」
学校へ通い始めてすぐあたしは担任の先生からプリントを渡された。
それを母に差し出すと、母は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
四年生までの生徒で親が仕事などの都合で家に帰るのが遅い場合、学校に隣接する学童教室で子どもを預かってくれるというものだ。
母はプリントをちらりと見て洗濯機の上に放り投げた。
「三年生の子で親が仕事してる子は学童に通ってるの。だから、あたしも行きたい」
放課後、一人で家にいるのは少し不安だった。それに母はいつも日付が変わる頃に家に帰ってくる。
子供ながらに学童に通えば、母が夜遅くなる前に仕事を切り上げて学校に迎えにきてくれるかもしれないという淡い期待もあった。
「無理よ。お金もかかるし。お迎えも学校まででしょ!?しかも、18時までに迎えに行かなきゃいけないなんてありえない」
「でも、お母さん帰り遅いし家に一人でいるのは不安なの」
「だったら、放課後、学童に行ってない子と遊んだらどう?家に遊びに行ったらいいじゃない」
「うん……」
「その子のいえに18時までいて帰ってきて宿題やったりしてたらあっという間にお母さん帰ってくるから。ねっ、それでいいでしょ」
「うん……」
「あ、でも友達をうちには絶対に連れてこないでね。それだけは約束して。お母さん、他人の子が家に入ってくるのとかは無理だから」
「……分かった」
「穂波は偉いわ。ちゃんとお母さんのいうこと聞けるのよね」
鏡越しに母が微笑む。
「あっ、お母さん。それとさ……アイロンが欲しいんだ。買ってくれない?」
母の機嫌がいいタイミングで切り出した。
「なんで?アイロン?そんなものいらないでしょ」
「給食当番の白衣はアイロンしなくちゃいけないんだって。クシャクシャだと次使う子が可哀想だからアイロンしてきてって先生が言ってたの」
「……ハァ!?なんでよ。そんなことを言うなら先生がかけてあげたらいいじゃない。そんなの強制されることじゃないでしょ」
「でも……」
こうなってしまったら母は首を絶対に縦に振らない。
いろいろな角度から鏡の中の自分の姿を確認している母にそっと問いかける。
「今日、帰ってくる?」
「なんで?」
「お母さん、帰ってくるよね?」
母はため息をつくと、まくしたてるように言った。
「あのねぇ、穂波。お母さん、遊んでるわけじゃないのよ。これはお仕事なの。穂波が美味しいご飯を食べられるのは誰のおかげ?考えてみて。こうやって何不自由なく暮らせてるのはお母さんのおかげでしょ?もう穂波は三年生でしょ。自分のことは自分でできるようになりなさい。お母さんが数日いないぐらいでそんな暗い顔しないの」
母の言葉でハッキリした。母は数日間、家を留守にするようだ。
「でも……」
「あっ、行かなくちゃ。新幹線に乗り遅れちゃう!!」
ヘアアイロンのスイッチを切り部屋の中を慌ただしく走り回る母はなぜかとても楽しそうだ。
洗濯機の上のプリントが床に落ち、母はそれをスリッパで踏んだ。
「あぁ、やだ。なんか踏んじゃった。穂波、あとで掃除しておいてね!」
そのプリントを足で蹴飛ばすと母は上機嫌なまま黒いエナメルのチェーンバッグを肩にかけた。
「お母さん……!」
玄関先で腰をかがめて高いヒールに足を入れた母のシャツをキュッと掴む。
行かないで。おねがいだから、置いてかないで。
一人は寂しいよ。夜は暗くて怖いよ。だからお願い。
──行かないで。
「そんな暗い顔しないの。穂波、笑顔よ。にっこり笑うの。笑えば幸せになれるんだから」
「……そうなの?」
「そうよ。どんなに辛くても悲しくても笑顔でいるの。泣いちゃダメ。泣いたら幸せがふわって逃げちゃう。だから、笑いなさい。幸せになりたいなら笑っていなさい」
「うん……」
「じゃあ、行ってくるから!またね〜!」
母が家を出てから帰ってくるまでの3日間。あたしの胃の中に入ったのは学校の給食と家にあったスナック菓子だけだった。
授業中もぐーぐーのお腹が鳴って授業に集中できず、頭痛までしてきた。
母から連絡は一切ないし、2日後にあった親子レクレーションには母だけが来なかった。
そんなのはどうだってよかった。正直、一人でいることには慣れていたから。
ただ、3日後にべろべろに酔っ払って家に帰ってきた母が3日間の愚痴をまき散らしたことにあたしは呆れと絶望に打ちひしがれた。
「でさ、アイツが子持ちは嫌だって言うのよ。まぁ、あたしもいってなかったけどさぁ、そこらの独身女よりあたしの方が絶対に美人だ思うのよ。ねぇ、穂波だってそう思うでしょ?」
母の話から察するに、旅行の最終日に男に子持ちということをカミングアウトしそれを理由に振られてしまったようだ。
「あーあぁ、穂波なんて産まなければよかった。そしたら、あたし、幸せになれたのに」
「お母さん、そんなこと言わないでよ」
「うえっ……なんか気持ち悪い……。うぅっ」
床に吐瀉物をまき散らして寝転ぶ母を介抱しながらあたしは笑った。
母が誰かと一緒に数時間前に口にした一度は胃に入ったドロドロの何かが手についた。
薄汚れてしまった自分の手をぼんやりと眺める。
ああ、あたしって一体なんなんだろう。自分の存在意義がわからない。いや、むしろ一度だって分かったことはない。ただ無常な気持ちが募っていく。
なんとか母をベッドに寝かせるとどっと疲れた。
仕事だと家を出て行ったのはやっぱり嘘だったのだ。
本当は母を罵って怒りをぶつけたかったけれど、それはできなかった。
もうほとんど意識がない中で母は男の名前を繰り返して涙を流す。
その日。あたしは幼いながらに気づいてしまった。
あたしは母の一番ではないし、特別な人間でも必要とされている人間でもないと。
あたしにとってあの頃の一番は母だったし、どんなに酷い扱いを受けても母はあたしにとって必要で特別で大切な人間だった。
母がいなければあたしは一人で生きていくことも叶わない。
お金だってない。ご飯だって一人で食べるのには限界があるし、身の回りのことだって完璧になんてできない。
「産まなければよかったなんて、言わなくてもいいのに」
本当は辛くて泣きたかったけど、笑った。幸せになりたかったから。
もしかしたらまだ訪れていない幸せがふわっと逃げてしまわないように……。
母の言いつけの通り学童に入らず、放課後は友達の家で過ごす日が多くなった。
でも、自分から『行きたい』と主張したことはなかった。それはしてはいけないことだと幼いながらに気づいていたのかもしれない。
『おいでよ』と誘われると必ずその誘いには乗ったけれど、自分の家に誰かを上がらせたことはなかった。
母が嫌がったからだ。でも結局、しばらくするとあたしは『放置子』と呼ばれて親の間で疎ましい存在になってしまったようだ。
その噂はたちまちクラス中に広がりあたしと一緒に遊んでくれる子は誰一人としていなくなってしまった。
悲しかったけれど、それも仕方がないかもしれない。
毎度家に遊びに来られたら迷惑だと感じる親もいるだろう。
それならばと『家じゃなくて公園で遊ぼうよ』と友達にこえをかけたけれどそれも無駄だった。
『ほなみちゃん、お菓子持ってこられるの?公園で遊ぶ時みんな家からお菓子持ってきて食べるの』
そう言われてあたしは首を縦に振ることができなかった。お菓子を買うお小遣いもないし、家にお菓子もない。
黙っていると友達は追い打ちをかけるように言った。
『人の家に遊びに行く時もお菓子とかなんか持ってくるんだよ?うちのお母さんが言ってたよ。ほなみちゃんは一度も持ってきたことがないって。靴も揃えないし、お邪魔しますも言えない。親も常識がなければ子供も常識がないって。だから、ほなみちゃんとは遊べない』
晴天の霹靂だった。
他人の家に遊びに行く時に手土産を持っていくということすら知らなかった。
もちろん、人の家に上がったら靴を揃えることも。
お邪魔します、なんて言ったこともない。
今思えば母はあたしに何も教えてくれなかった。
生きて行くうえで大切なこと、いや、当たり前のことすらも何も。
もしかしたら、教えなかったのではなく母も知らなかったのかもしれない。
急に恥ずかしくなった。
あまりに無知な自分が恥ずかしくてあたしは翌日、学校の図書室で何冊もの本を借りた。
小学生で覚えておきたい教養や身の回りのことなどありとあらゆる本を読み漁った。
子供は親の背中を見て育つ、ということわざも本の中で知った。
母の背中を見ていたら自分はきっとダメな人間になってしまう。
だから、必死に本を読み、勉強をした。
周りの人間に迷惑をかけないように、常識はずれのことをしないように、放置子などと陰で噂されないように。
あたしは必死だった──。