また、君と笑顔で会える日まで。
天馬紗希side
6月になり衣替えも済み穏やかな日々が続いている。
まるで嵐の前触れのようだった。
前半は小論文の課題に取り組み後半には期末テストが控えている。
合格ラインギリギリで入学したこの学校の学力レベルは非常に高くついていくのもやっとだ。
この日の放課後、穂波ちゃんの席の周りには日野森さんと小豆沢さんが教科書を持って集まっていた。
穂波ちゃんに勉強を教えてもらうためだ。
「あー、この問題わかんない。教えてー!」
「ん〜?これほらっ、教科書のこの右の公式使えば解けるよ」
「あー、確かに。つーかなんで穂波ってそんなに頭いいの?この学校でバイトしてるのって穂波くらいじゃん?いつ勉強してんの?」
「いやいや、頭いいわけではないって。バイトから帰ってきてから家でめちゃくちゃ勉強してるんだもん。あたしぐらいやれば誰だってそこそこの点数取れますから。ってことで、もっと勉強しなさい!」
「えー、嫌だぁ〜。やりたくないもん」
「やりたくなくても、やる!赤点取ったら追試大変だぞ〜!!ほら、頑張れ。あと一問!!」
穂波ちゃんはいつもこんな調子だ。
家でこっそり勉強しておきながら「勉強していない」と言ったりせず駆け抜けはしない。
彼女は胸を張って「必死に勉強した!」と公言し、みんなも頑張るようにと励ましながら勉強に向かうように促す。
偉いなぁ。私も家に帰ってちゃんと勉強しなくちゃ。
私は机の横のバッグを手に取り、帰る準備を始めた。
こうやって友達同士でワイワイ勉強会をするなんて羨ましい。
そのとき、教室の扉付近から担任の先生が顔を出し「望月さん」と穂波ちゃんの名前をよんだ。
穂波ちゃんが顔を持ち上げて先生のいる方向に視線を向けると、先生は小さく手招きをした。
「あー、ごめん。なんか呼ばれてるからちょっと行ってくるわ」
「えー、穂波いなくなったら勉強できないじゃん!」
「大丈夫だって。あとどの問題?」
「問4」
「えっと……その問題なら、紗希できるよ。聞いてみたら」
その言葉と同時に穂波ちゃんが振り返って顔の前でパチンっと手を合わせた。
「紗希、お願い!問4だけ彼女らに教えてあげて〜!」
「えっ、わ、私?」
「そっ。その問題、この前紗希が先生にさされて答え黒板に書いてたやつ。よろしく〜!」
穂波ちゃんはそう言うと、そのまま教室を飛び出して行ってしまった。
その場に残された穂波ちゃんのグループの日野森さんと小豆沢さんが困ったように目を見合わせる。
「あっ、教科書・・・・・・見せてもらえる?」
恐る恐る震える右手を差し出してみたものの、いつまで経っても教科書を渡してもらえない。
それどころか、重苦しい雰囲気が漂い、私は右手を引っ込めた。
『なんか、顔に似合わなくない?』
『紗希って名前じゃないよね』
彼女たち二人の言葉が脳内でこだますると同時に、顔が徐々に強張っていく。
恐ろしかった。
この沈黙が。穂波ちゃんの言葉を真に受けて調子に乗ってしまっていた。
手の小刻みな震えに気づかれないように机の下のスカートをキツく握りしめると日野森さんが口を開いた。
「前から思ってたんだけどさ、なんで天馬さんって穂波と仲良くしてんの?」
「え……?」
「もしかしてうちらのグループに入ろうとか思ってないよね?そう言うの勘弁してよね」
「そ、そんなこと思ってな──」
「なんか暗いんだもん、天馬さんって。うちらとも穂波ともノリ合わないでしょ?そういうタイプじゃないもんね?」
「ちょっと、面と向かってそんなこと言うのやめなって。流石にそれは可哀想じゃん!その通りだけどさ〜」
二人の悪意が私に向けられているとすぐに気づいた。
きっと二人は以前から私と穂波ちゃんが言葉を交わしたりすることに嫌悪感を抱いていたに違いない。
スクールカーストの頂点に位置する穂波ちゃんたちのグループと最下部に位置する私が馴れ馴れしく彼女と言葉を交わしたりしてはいけなかったのかもしれない。
「ごめんなさい……」
どうして謝っているのか自分でもよくわからないけれど、きっと謝った方がいい。
ここで宣言した方がいい。
もう穂波ちゃんとは気軽に言葉を交わさないと。
そうしないときっと──。
「でもさ、穂波も穂波じゃない?誰彼構わず声かけるし」
「わかる〜!まぁいい子なんだけど、時々ハァ?って思うことあるよね」
「あるある!」
二人の話題が徐々に穂波ちゃんの悪口に蛇を切ったことに気づいて、私は「ごめんなさい」ともう一度謝った。
穂波ちゃんが私のせいで悪口を言われるなんて耐えられない。
震える指先を左手でぎゅっと握り締めた。
「ごめんなさい。だから……」
──だから、穂波ちゃんの悪口をもう言わないでください。
穂波ちゃんが私のような立場にならないように、辛い思いをしないように。
だって彼女は私のことを『友達』だと言ってくれる唯一の人だから。
「──ただいま〜!!って、ちゃんと勉強してた〜?」
穂波ちゃんが戻ってきた。
私は弾かれたように立ち上がると、バッグを抱えたまま穂波ちゃんと目を合わせることなく後ろ側の扉に向かって歩き出した。
「あれ、紗希帰っちゃうの〜?また明日ねーー!」
穂波ちゃんの声が背中にぶつかったのに、私はその声を無視した。
大股で歩いて教室から出て昇降口に向かう。
一日晴れだと朝のニュースでやっていたのにハズレもいいところだ。
今日に限って家に折りたたみ傘を置いてきてしまった。
外はいつの間にか土砂降りで私は昇降口で立ちすくみ自分の運の悪さに愕然とした。
ザーッという雨の音が鼓膜を揺らす。雨の日は嫌いではない。むしろ好きだ。
傘をさせば、周りからの雑音も視線も気にならないから。
そのとき、スカートの中のスマホが震えた。
【穂波ちゃん:傘、持ってきてる?なかったらあたしの傘使って!昇降口の傘立てにあるから。ちょっとボロボロのビニール傘!】
タイミングよくラインが届いた。
穂波ちゃんは超能力でも使えるんだろうか。
どこかで私のことを見ている?キョロキョロと周りを見渡しても穂波ちゃんの姿はどこにもない。
頭のいい彼女が先回りして気を利かせてくれただけ。超能力でもなんでもない。
傘立ての方に歩みを進めると、傘立てには確かに穂波ちゃんの傘が残っていた。
ちょっとボロボロレベルではなく、相当ボロボロのビニール傘。
あちこち錆びている。
すぐに捨てられてもおかしくない傘を使い続けているのが穂波ちゃんらしいと思った。
人の目を気にしない、自分の道をまっすぐ突き進む。
なんだかそういうところが彼女らしい。
「ありがとう,穂波ちゃん」
その優しい気持ちだけ貰っておくね。
だって、この傘を使ったら穂波ちゃんが濡れてしまう。
それに、傘の貸し借りをしたことがあの二人に知られたら困るのは私ではない。
穂波ちゃんだ。
親切心で言ってくれているのでわかってる。でも、私と関わっても彼女にはなんのプラスにもならない。むしろマイナスでしかないのだ。
彼女は私とは関わるべきではない。
【穂波ちゃん:あたしは折りたたみもありから!傘、貸すぞな!!】
焦って打っているんだろう。珍しくメッセージは誤字だらけだ。
私はスマホの画面をタップした。
先日、初めて無料ではないスタンプを購入してみた。
今まで家族としかメッセージのやりとりをしないから無料分だけで十分だったのに、穂波ちゃんとメッセージを交換するようになってから彼女に感化された。
とはいっても、穂波ちゃんは意外にもほとんどが無料スタンプだった。
ちょっと穂波ちゃんっぽいお気に入りの猫の有料スタンプの中から【ありがとう】のスタンプを選んで送った。
すぐに既読がついた。
穂波ちゃんがまた何かのメッセージを送ってきたようだ。
私は名残惜しい気持ちを押し殺してスマホをポケットの中に押し込んだ。
日野森さんと小豆沢さんのあの言葉は私への警告だ。
穂波ちゃんとこれ以上距離が近づかないように、彼女たちは警告を出してきたのだ。
『ムカついたら言い返しちゃっていいんだって。人間みんなたいとうなんだから。ねっ!?』
トイレで言われた穂波ちゃんの言葉が蘇る。
私が誰と喋ったってそんなのあの二人には到底関係のないことなのに。
私は穂波ちゃんとこれからも話したい。メッセージのやりとりだってしたい。
それをどうして他人にとやかく言われないといけないんだろう。
ムカつく。ムカつく。ムカつく。
私が誰と何をしようが、二人には関係ない。
──って、口にできたらいいのにな。思ってることをそのまま口にできたなら。
なんて出来もしないことを考えている自分が情けない。
私は穂波ちゃんと一緒にいてはいけないんだ──。
バッグを肩にかけ直して大きく深呼吸をした。
雨はまだ止む気配はない。もうどうにだってなれ。
どうなったっていい。
普段だったらこんな馬鹿な真似は絶対しない。一時的な雨だろうし、少し待てばきっと雨は小雨状態になるだろう。
頭ではきちんと理解していながら投げやりな気持ちを抱えて私は雨に向かって突進した。
瞬間、全身を雨粒が打ち付ける。
べちゃべちゃとした不快な感触が足の裏全体に広がっていく。紺色の靴下が靴底にくっつきとにかく気持ち悪い。
「なにこれ。もう、本当いや!」
自分で行くと決めた癖に私は誰にともなくこのモヤモヤした感情を独り言に乗せて体の奥から空気中に吐き出す。
誰にも届くはずもないこの声に託した。
「私だって友達が欲しいよ」
それすら望んではいけないというように雨粒は一層大きく激しくなる。
再びスマホがぶるぶると震えた。
取り出して手に取ると濡れないようにタオルでくるんでからバッグの奥底に押し込む。
濡れないように、壊れないように。
雨はまるで今の私の心模様のようだ。
そっと空を見上げるとスコールがシャワーのように私の体に降り注いだ。
なんとか家にたどり着いた頃には私はボロボロの姿になっていた。
酷く濡れたせいで顎が小刻みに震えて唇が真っ青になっているのが鏡を見なくてもわかった。
震える体を両腕で摩りながら「ただいま」とできる限りの笑顔を浮かべる。
心配させたくなかった。また中学の時のようになったら母はきっと悲しむだろう。
私のことを自分のこと以上に大切にしてくれている母だからこそ。
「ごめん。制服濡れちゃった」
「大丈夫?制服なんてどうだっていいのよ。電話してくれれば学校まで迎えに行ったのに」
「途中で突然降り始めたから」
「このままじゃ風邪ひくわよ。シャワー浴びて着替えないと」
母は着替えとタオルを私に渡すとバスルームへ行くように促した。
べちゃべちゃの制服と下着を脱ぎ捨てて生まれたままの姿になりシャワーのコックを唸ると身体中が暖かいぬくもりに包み込まれた。
このままさっきの出来事が洗い流されて記憶から消え去って仕舞えばどんなにいいだろう。
良い記憶は忘れてしまうのに嫌な記憶は忘れられないのはなぜだろう。
目を瞑ると頭に浮かんでくるのは穂波ちゃんのことだった。
教室を出る時声をかけてくれたのに私はその声を無視してしまった。
今頃どんな気持ちでいるんだろう。でもきっと彼女のことだし私が無視したなどと婿まで深く考えていないかもしれない。
『紗希、あたしの声聞こえなかったのかもね〜!』
と特に気に留めないだろう。
彼女にとって私の存在はその他大勢の中の友達の一人だ。
今の私のようにのうやってウジウジ悩んだりすることもないだろう。
そう考えるとなんだか酷く虚しい気持ちになる。
天馬紗希という存在を誰にも認めてもらえないようなそんな気持ち。
間違っても穂波ちゃんのようにたくさんの友達が欲しいなんてそんな高望みはしない。
ただ、たった一人だけでいい。私のことを理解してくれる人が、家族以外でたった一人だけでもこの世界に存在したら私はきっと……──。
「紗希〜?大丈夫?」
扉越しに母の気配を感じる。
「うん。今出るから」
シャワーコックをひねるとぴたりとお湯が止まる。
曇ってしまった浴室の鏡を掌で擦ると、鏡の中には今にも泣き出しそうな表情を浮かべた私がうつっていた。
「これね、駅前に新しくできたケーキ屋さんのチョコケーキなの。夕飯前だけど、たまにはいいでしょ?」
「わぁ、美味しそうだね」
バスルームからリビングに向かうと、テーブルには温かい紅茶とケーキが用意されていた。
なぜか食欲は皆無だった。普段ならば学校が終わり家にたどり着いたこの瞬間が一番空腹を感じるはずなのに。
できる限り明るくつとめてフォークを握り締め綺麗にデコレーションされたケーキをすくいとる。
小さめのケーキーの上のチョコクリームはキメが細かく見るからに美味しそうだ。
口に運んで2、3度噛む。でもなんの感想も湧いてこない。
大好物のケーキを食べているのになぜだ。まるで砂を噛んでいるみたい。
「どう?」
「うん!すごい美味しいね」
慌てて答える。
「でしょ〜?今度はモンブラン買ってみようか?」
「そうだね」
食べたいという要求が全く湧いてこない。必死にフォークを動かして口に押し込んで噛み砕いて喉の奥へと運ぶ。
それでも消化がうまくできなくて私は紅茶をすすり残りのケーキを無理やり胃の奥へ押し込んだ。
「最近学校はどう?」
ケーキを食べ終わったタイミングで母が遠慮がちにたずねた。
「それなりに楽しくやってるよ」
私はサラリと息をするように嘘をついた。
「そっか」
「なんか疲れちゃったから部屋行くね」
「夕飯まで少し時間があるから休むといいわ」
これ以上母と顔を合わせて話すのは気が引ける。また私はきっと母に嘘をつかなければならないから。
濡れたバッグの中からタオルでくるんだスマートフォンだけを手に取り二階へ続く階段を登っていく。
体が重たい。なんとか自室に入ると私は倒れ込むようにベッドにダイブした。
私は馬鹿だ。大馬鹿だ。
「っ……うぅ……」
うつぶせのまま枕に顔を埋めて漏れそうになる声を押し殺す。
一体穂波ちゃんに何を望んでいたの……?
話がしたい、友達が欲しい、人に優しくして欲しい、誰かと関わりを持ちたい。
私は誰かの特別な人に誰かに必要とされる人になりたかった。
生きていていいんだよって誰かに言って欲しい。そう思って欲しい。
人並みの幸せは求めてはいけなかった。そんな幸せを望めば自分自身も傷つくことになる。
期待するだけムダだ。私の儚い願いは叶わない。
穂波ちゃんに出会う前の私に戻ろう。
できる限り人と関わらず心を閉ざし他人には感心でいる。
一人でいる強さを身につけ一人で生きていく。
「生きる。私は生きられる」
大丈夫。大丈夫だよ紗希。
あなたならきっと生きていける。
自分自身を必死に励ましていると瞼がだんだん重たくなってきた。
疲れがたまっていたんだろう。私はそのまま引っ張られるように夢の世界におちていった。
6月になり衣替えも済み穏やかな日々が続いている。
まるで嵐の前触れのようだった。
前半は小論文の課題に取り組み後半には期末テストが控えている。
合格ラインギリギリで入学したこの学校の学力レベルは非常に高くついていくのもやっとだ。
この日の放課後、穂波ちゃんの席の周りには日野森さんと小豆沢さんが教科書を持って集まっていた。
穂波ちゃんに勉強を教えてもらうためだ。
「あー、この問題わかんない。教えてー!」
「ん〜?これほらっ、教科書のこの右の公式使えば解けるよ」
「あー、確かに。つーかなんで穂波ってそんなに頭いいの?この学校でバイトしてるのって穂波くらいじゃん?いつ勉強してんの?」
「いやいや、頭いいわけではないって。バイトから帰ってきてから家でめちゃくちゃ勉強してるんだもん。あたしぐらいやれば誰だってそこそこの点数取れますから。ってことで、もっと勉強しなさい!」
「えー、嫌だぁ〜。やりたくないもん」
「やりたくなくても、やる!赤点取ったら追試大変だぞ〜!!ほら、頑張れ。あと一問!!」
穂波ちゃんはいつもこんな調子だ。
家でこっそり勉強しておきながら「勉強していない」と言ったりせず駆け抜けはしない。
彼女は胸を張って「必死に勉強した!」と公言し、みんなも頑張るようにと励ましながら勉強に向かうように促す。
偉いなぁ。私も家に帰ってちゃんと勉強しなくちゃ。
私は机の横のバッグを手に取り、帰る準備を始めた。
こうやって友達同士でワイワイ勉強会をするなんて羨ましい。
そのとき、教室の扉付近から担任の先生が顔を出し「望月さん」と穂波ちゃんの名前をよんだ。
穂波ちゃんが顔を持ち上げて先生のいる方向に視線を向けると、先生は小さく手招きをした。
「あー、ごめん。なんか呼ばれてるからちょっと行ってくるわ」
「えー、穂波いなくなったら勉強できないじゃん!」
「大丈夫だって。あとどの問題?」
「問4」
「えっと……その問題なら、紗希できるよ。聞いてみたら」
その言葉と同時に穂波ちゃんが振り返って顔の前でパチンっと手を合わせた。
「紗希、お願い!問4だけ彼女らに教えてあげて〜!」
「えっ、わ、私?」
「そっ。その問題、この前紗希が先生にさされて答え黒板に書いてたやつ。よろしく〜!」
穂波ちゃんはそう言うと、そのまま教室を飛び出して行ってしまった。
その場に残された穂波ちゃんのグループの日野森さんと小豆沢さんが困ったように目を見合わせる。
「あっ、教科書・・・・・・見せてもらえる?」
恐る恐る震える右手を差し出してみたものの、いつまで経っても教科書を渡してもらえない。
それどころか、重苦しい雰囲気が漂い、私は右手を引っ込めた。
『なんか、顔に似合わなくない?』
『紗希って名前じゃないよね』
彼女たち二人の言葉が脳内でこだますると同時に、顔が徐々に強張っていく。
恐ろしかった。
この沈黙が。穂波ちゃんの言葉を真に受けて調子に乗ってしまっていた。
手の小刻みな震えに気づかれないように机の下のスカートをキツく握りしめると日野森さんが口を開いた。
「前から思ってたんだけどさ、なんで天馬さんって穂波と仲良くしてんの?」
「え……?」
「もしかしてうちらのグループに入ろうとか思ってないよね?そう言うの勘弁してよね」
「そ、そんなこと思ってな──」
「なんか暗いんだもん、天馬さんって。うちらとも穂波ともノリ合わないでしょ?そういうタイプじゃないもんね?」
「ちょっと、面と向かってそんなこと言うのやめなって。流石にそれは可哀想じゃん!その通りだけどさ〜」
二人の悪意が私に向けられているとすぐに気づいた。
きっと二人は以前から私と穂波ちゃんが言葉を交わしたりすることに嫌悪感を抱いていたに違いない。
スクールカーストの頂点に位置する穂波ちゃんたちのグループと最下部に位置する私が馴れ馴れしく彼女と言葉を交わしたりしてはいけなかったのかもしれない。
「ごめんなさい……」
どうして謝っているのか自分でもよくわからないけれど、きっと謝った方がいい。
ここで宣言した方がいい。
もう穂波ちゃんとは気軽に言葉を交わさないと。
そうしないときっと──。
「でもさ、穂波も穂波じゃない?誰彼構わず声かけるし」
「わかる〜!まぁいい子なんだけど、時々ハァ?って思うことあるよね」
「あるある!」
二人の話題が徐々に穂波ちゃんの悪口に蛇を切ったことに気づいて、私は「ごめんなさい」ともう一度謝った。
穂波ちゃんが私のせいで悪口を言われるなんて耐えられない。
震える指先を左手でぎゅっと握り締めた。
「ごめんなさい。だから……」
──だから、穂波ちゃんの悪口をもう言わないでください。
穂波ちゃんが私のような立場にならないように、辛い思いをしないように。
だって彼女は私のことを『友達』だと言ってくれる唯一の人だから。
「──ただいま〜!!って、ちゃんと勉強してた〜?」
穂波ちゃんが戻ってきた。
私は弾かれたように立ち上がると、バッグを抱えたまま穂波ちゃんと目を合わせることなく後ろ側の扉に向かって歩き出した。
「あれ、紗希帰っちゃうの〜?また明日ねーー!」
穂波ちゃんの声が背中にぶつかったのに、私はその声を無視した。
大股で歩いて教室から出て昇降口に向かう。
一日晴れだと朝のニュースでやっていたのにハズレもいいところだ。
今日に限って家に折りたたみ傘を置いてきてしまった。
外はいつの間にか土砂降りで私は昇降口で立ちすくみ自分の運の悪さに愕然とした。
ザーッという雨の音が鼓膜を揺らす。雨の日は嫌いではない。むしろ好きだ。
傘をさせば、周りからの雑音も視線も気にならないから。
そのとき、スカートの中のスマホが震えた。
【穂波ちゃん:傘、持ってきてる?なかったらあたしの傘使って!昇降口の傘立てにあるから。ちょっとボロボロのビニール傘!】
タイミングよくラインが届いた。
穂波ちゃんは超能力でも使えるんだろうか。
どこかで私のことを見ている?キョロキョロと周りを見渡しても穂波ちゃんの姿はどこにもない。
頭のいい彼女が先回りして気を利かせてくれただけ。超能力でもなんでもない。
傘立ての方に歩みを進めると、傘立てには確かに穂波ちゃんの傘が残っていた。
ちょっとボロボロレベルではなく、相当ボロボロのビニール傘。
あちこち錆びている。
すぐに捨てられてもおかしくない傘を使い続けているのが穂波ちゃんらしいと思った。
人の目を気にしない、自分の道をまっすぐ突き進む。
なんだかそういうところが彼女らしい。
「ありがとう,穂波ちゃん」
その優しい気持ちだけ貰っておくね。
だって、この傘を使ったら穂波ちゃんが濡れてしまう。
それに、傘の貸し借りをしたことがあの二人に知られたら困るのは私ではない。
穂波ちゃんだ。
親切心で言ってくれているのでわかってる。でも、私と関わっても彼女にはなんのプラスにもならない。むしろマイナスでしかないのだ。
彼女は私とは関わるべきではない。
【穂波ちゃん:あたしは折りたたみもありから!傘、貸すぞな!!】
焦って打っているんだろう。珍しくメッセージは誤字だらけだ。
私はスマホの画面をタップした。
先日、初めて無料ではないスタンプを購入してみた。
今まで家族としかメッセージのやりとりをしないから無料分だけで十分だったのに、穂波ちゃんとメッセージを交換するようになってから彼女に感化された。
とはいっても、穂波ちゃんは意外にもほとんどが無料スタンプだった。
ちょっと穂波ちゃんっぽいお気に入りの猫の有料スタンプの中から【ありがとう】のスタンプを選んで送った。
すぐに既読がついた。
穂波ちゃんがまた何かのメッセージを送ってきたようだ。
私は名残惜しい気持ちを押し殺してスマホをポケットの中に押し込んだ。
日野森さんと小豆沢さんのあの言葉は私への警告だ。
穂波ちゃんとこれ以上距離が近づかないように、彼女たちは警告を出してきたのだ。
『ムカついたら言い返しちゃっていいんだって。人間みんなたいとうなんだから。ねっ!?』
トイレで言われた穂波ちゃんの言葉が蘇る。
私が誰と喋ったってそんなのあの二人には到底関係のないことなのに。
私は穂波ちゃんとこれからも話したい。メッセージのやりとりだってしたい。
それをどうして他人にとやかく言われないといけないんだろう。
ムカつく。ムカつく。ムカつく。
私が誰と何をしようが、二人には関係ない。
──って、口にできたらいいのにな。思ってることをそのまま口にできたなら。
なんて出来もしないことを考えている自分が情けない。
私は穂波ちゃんと一緒にいてはいけないんだ──。
バッグを肩にかけ直して大きく深呼吸をした。
雨はまだ止む気配はない。もうどうにだってなれ。
どうなったっていい。
普段だったらこんな馬鹿な真似は絶対しない。一時的な雨だろうし、少し待てばきっと雨は小雨状態になるだろう。
頭ではきちんと理解していながら投げやりな気持ちを抱えて私は雨に向かって突進した。
瞬間、全身を雨粒が打ち付ける。
べちゃべちゃとした不快な感触が足の裏全体に広がっていく。紺色の靴下が靴底にくっつきとにかく気持ち悪い。
「なにこれ。もう、本当いや!」
自分で行くと決めた癖に私は誰にともなくこのモヤモヤした感情を独り言に乗せて体の奥から空気中に吐き出す。
誰にも届くはずもないこの声に託した。
「私だって友達が欲しいよ」
それすら望んではいけないというように雨粒は一層大きく激しくなる。
再びスマホがぶるぶると震えた。
取り出して手に取ると濡れないようにタオルでくるんでからバッグの奥底に押し込む。
濡れないように、壊れないように。
雨はまるで今の私の心模様のようだ。
そっと空を見上げるとスコールがシャワーのように私の体に降り注いだ。
なんとか家にたどり着いた頃には私はボロボロの姿になっていた。
酷く濡れたせいで顎が小刻みに震えて唇が真っ青になっているのが鏡を見なくてもわかった。
震える体を両腕で摩りながら「ただいま」とできる限りの笑顔を浮かべる。
心配させたくなかった。また中学の時のようになったら母はきっと悲しむだろう。
私のことを自分のこと以上に大切にしてくれている母だからこそ。
「ごめん。制服濡れちゃった」
「大丈夫?制服なんてどうだっていいのよ。電話してくれれば学校まで迎えに行ったのに」
「途中で突然降り始めたから」
「このままじゃ風邪ひくわよ。シャワー浴びて着替えないと」
母は着替えとタオルを私に渡すとバスルームへ行くように促した。
べちゃべちゃの制服と下着を脱ぎ捨てて生まれたままの姿になりシャワーのコックを唸ると身体中が暖かいぬくもりに包み込まれた。
このままさっきの出来事が洗い流されて記憶から消え去って仕舞えばどんなにいいだろう。
良い記憶は忘れてしまうのに嫌な記憶は忘れられないのはなぜだろう。
目を瞑ると頭に浮かんでくるのは穂波ちゃんのことだった。
教室を出る時声をかけてくれたのに私はその声を無視してしまった。
今頃どんな気持ちでいるんだろう。でもきっと彼女のことだし私が無視したなどと婿まで深く考えていないかもしれない。
『紗希、あたしの声聞こえなかったのかもね〜!』
と特に気に留めないだろう。
彼女にとって私の存在はその他大勢の中の友達の一人だ。
今の私のようにのうやってウジウジ悩んだりすることもないだろう。
そう考えるとなんだか酷く虚しい気持ちになる。
天馬紗希という存在を誰にも認めてもらえないようなそんな気持ち。
間違っても穂波ちゃんのようにたくさんの友達が欲しいなんてそんな高望みはしない。
ただ、たった一人だけでいい。私のことを理解してくれる人が、家族以外でたった一人だけでもこの世界に存在したら私はきっと……──。
「紗希〜?大丈夫?」
扉越しに母の気配を感じる。
「うん。今出るから」
シャワーコックをひねるとぴたりとお湯が止まる。
曇ってしまった浴室の鏡を掌で擦ると、鏡の中には今にも泣き出しそうな表情を浮かべた私がうつっていた。
「これね、駅前に新しくできたケーキ屋さんのチョコケーキなの。夕飯前だけど、たまにはいいでしょ?」
「わぁ、美味しそうだね」
バスルームからリビングに向かうと、テーブルには温かい紅茶とケーキが用意されていた。
なぜか食欲は皆無だった。普段ならば学校が終わり家にたどり着いたこの瞬間が一番空腹を感じるはずなのに。
できる限り明るくつとめてフォークを握り締め綺麗にデコレーションされたケーキをすくいとる。
小さめのケーキーの上のチョコクリームはキメが細かく見るからに美味しそうだ。
口に運んで2、3度噛む。でもなんの感想も湧いてこない。
大好物のケーキを食べているのになぜだ。まるで砂を噛んでいるみたい。
「どう?」
「うん!すごい美味しいね」
慌てて答える。
「でしょ〜?今度はモンブラン買ってみようか?」
「そうだね」
食べたいという要求が全く湧いてこない。必死にフォークを動かして口に押し込んで噛み砕いて喉の奥へと運ぶ。
それでも消化がうまくできなくて私は紅茶をすすり残りのケーキを無理やり胃の奥へ押し込んだ。
「最近学校はどう?」
ケーキを食べ終わったタイミングで母が遠慮がちにたずねた。
「それなりに楽しくやってるよ」
私はサラリと息をするように嘘をついた。
「そっか」
「なんか疲れちゃったから部屋行くね」
「夕飯まで少し時間があるから休むといいわ」
これ以上母と顔を合わせて話すのは気が引ける。また私はきっと母に嘘をつかなければならないから。
濡れたバッグの中からタオルでくるんだスマートフォンだけを手に取り二階へ続く階段を登っていく。
体が重たい。なんとか自室に入ると私は倒れ込むようにベッドにダイブした。
私は馬鹿だ。大馬鹿だ。
「っ……うぅ……」
うつぶせのまま枕に顔を埋めて漏れそうになる声を押し殺す。
一体穂波ちゃんに何を望んでいたの……?
話がしたい、友達が欲しい、人に優しくして欲しい、誰かと関わりを持ちたい。
私は誰かの特別な人に誰かに必要とされる人になりたかった。
生きていていいんだよって誰かに言って欲しい。そう思って欲しい。
人並みの幸せは求めてはいけなかった。そんな幸せを望めば自分自身も傷つくことになる。
期待するだけムダだ。私の儚い願いは叶わない。
穂波ちゃんに出会う前の私に戻ろう。
できる限り人と関わらず心を閉ざし他人には感心でいる。
一人でいる強さを身につけ一人で生きていく。
「生きる。私は生きられる」
大丈夫。大丈夫だよ紗希。
あなたならきっと生きていける。
自分自身を必死に励ましていると瞼がだんだん重たくなってきた。
疲れがたまっていたんだろう。私はそのまま引っ張られるように夢の世界におちていった。