A Box of Chocolates
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きぬさんの家は築六十年。
凜の住むもと祖父母の家よりもさらに古い。
木造で短いながらも縁側がある、いかにも昭和チックなつくり。
二十歳でお嫁に来たときに新築したらしく、それ以来六十年、人生の四分の三をそこで暮らしていた。
彼女は三人の子供を産み育て、五十代で夫を亡くしてからは、一人で子供たちを育て上げた。
長男は家を出て遠くにいる。一緒に暮らそうと言われているが、いまさらなじみのない土地には行きたくないときぬさんは断っている。
次男と長女も家を出てしまっている。次男は隣の市で暮らしていて時々はきぬさんを訪ねてくるが、彼女は一人暮らしだ。
同じ一人暮らし同士助け合いましょうと、凜ときぬさんは普段から話し合っていた。だからきぬさんの電話には、凜の番号が短縮番号で登録されていた。
「仁はうちの息子の幼馴染で、息子の会社の社員でもあるんです」
茶の間で四人分のお茶を出しながら廸子さんが言った。
凜ときぬさんはへぇぇと頷いた。
「たまたまこの近所が今回の現場だったんだ。てか、廸子さんの派遣先のばあちゃんだったとはね」
仁は笑ってから凜に視線を合わせた。凜は一瞬怯む。
「しかも、ばあちゃんの緊急連絡先! ”りんさん”って!」
「は、はい」
「知り合いだったかい?」
きぬさんが首を傾げる。
「いや、知り合いというほどでは。前に居酒屋のトイレの前でぶつかったことがあって」
凜が苦笑すると、きぬさんと廸子さんはあらまぁ、と目を見開いた。
「まさか、廸子さんの派遣先の人とはね。でも、孫じゃないんだ?」
「孫みたいなもんだよ。凜ちゃんは建築設計の仕事をしてたんだよ。今は在宅でなんたら、小さい模型を作ってるけどね。自慢の孫もどきだ」
「なんだ、それ」
仁はきぬさんの言葉にまた笑う。
「仁が私の息子もどきなのみたいなものだね」
廸子さんが言うと仁は肩をすくめた。
「なるほど。で、小さい模型って?」
凜は仁の視線を受けて息を止める。まっすぐな視線。小学生の男の子のような、好奇心に満ちた視線。
「なんだか、小さい家とか、箱庭とか、最近ではありとあらゆるものを小さく作っているよね、凜ちゃん」
きぬさんの言葉に凜は頷く。
「そうだよ、きぬさん。ミニチュアっていうの」
「凜さんは海外からも注文が入るほどの腕前なのよ」
「そうか。それはすごいな。ちょっと同業者? いや、違うか」
仁は首を傾げた。凜はくすっと笑う。
「もとは同じ業界ですね」
「ほら、見てごらんよ」
廸子さんは凜が造ったきぬさんちの茶の間のミニチュアを、用箪笥の上から持ってきて仁に見せた。
「おおお!」
仁はその精密で正確なつくりに目をみはる。
「美しいな……」
「すごいだろう?」
「って、なんで廸子さんが自慢げなんだよ? いや、それにしてもマジですごい。英介がみたら絶叫するな」
「えいすけ?」
きぬさんが首を傾げる。廸子さんは苦笑する。
「うちの息子ですよ。この子とは保育園のころからの付き合いで」
「いい大人捕まえて、この子とか言うか?」
「何歳になってもあんたたちは私にはちびのままだよ」
廸子さんの言葉にきぬさんと凜は笑った。
きぬさんがトイレに行くのに廸子さんが付きそう。茶の間に残された凜は、飽きることなくミニチュアを眺めている仁を見て苦笑する。
「やっぱり大工さんとしては気になるみたいですね」
「うん、すごいなぁと。見れば見るほど、ほれぼれする。あの用箪笥、細かいところまでそっくり、しかも傷まで再現されてるね」
「あ、傷、わかったんですね!」
凜は嬉しそうに声を弾ませた。仁はそっとミニチュアの用箪笥を指してから、本物の用箪笥の同じ個所を指した。
「うん、ここ、これ、同じだよね」
「そうです!これはきぬさんの息子さんたちが小さいころに兄弟げんかで暴れてつけた傷だそうです」
「なるほで。これは……あれだね」
柱の傷を照らし合わせて仁は笑う。
「そうです。きぬさんの子供たちの身長を測った傷です」
「やるねぇ。比率が、ぴったりだ」
「そういうところが、こだわりなんです」
茶の間に廸子さんに支えられて戻ってきたきぬさんは、縁側でミニチュアの茶の間を覗き込んで話し込む凜と仁を見て、「おや」と呟いた。
「廸子さん、あの子は独身かね?」
廸子さんは苦笑する。
「スネに傷だらけではありますが、一応はそうです」
ふむ、とひとり頷くきぬさんに、二人は気づかなかった。
スマホがブーブー鳴って、仕事中だからと仁は現場に戻って行った。
凜も作業に戻る。廸子さんも凜の家に戻り後片付けを済ませ、再びきぬさんの家で夕飯の準備をして帰って行った。
それから五日間、凜は締め切り間近の作業に没頭した。
依頼主が取りに来て品物を渡すと、やっと気が抜けた。仕事の依頼のメールをチェックすると、かなりたまっていた。数時間で完成するものから数週間かかるものまで整理する。メールやメッセージを返信したり、依頼内容を確認したり、支払い内容を確認したりする。
すべてはセルフマネージメントなので大変だ。忙しい。でも会社勤めよりははるかに向いていると思う。
没頭していると楽しい。ひたすら、好きなことをしていられることは幸せだと思う。
どうせ社交的なほうではない。一人でもくもくと作業することは性に合っている。
午前中のうちに家事をすませ、街はずれの大きなショッピングセンターのホビーショップに材料を仕入れに行く。書店にも寄って、隣接のカフェに本を持ち込んで少し読書をして、午後のお茶に間に合うように帰宅した。
お土産のザッハトルテを手に、凜はお隣を訪れた。
「いらっしゃい」
廸子さんが出迎えて、お茶の用意をしてくれる。三人で縁側に座り、庭を眺めながらお茶にする。
暑い夏が過ぎて朝晩の気温が下がり、なんとなく秋めいてきている。日中はまだシャツ一枚でも寒くはない。
きぬさんの家の庭は、大きな柿の木や柚子の木が植えられていて、まだ青い実がたわわに枝に下がっている。二畳分くらいの小さな池には、楓の枝が垂れかかって、青い葉を水面に移し、その下を赤や赤白の金魚が泳いでいる。
「出かけてきたのかい、凜ちゃん」
きぬさんの言葉に凜は笑顔で頷く。
「うん、一仕事終えたから。今日は一日休んで、また明日から作業する」
「あんまり根詰めすぎちゃだめだよ。会社勤めと違って、時間が決まってるわけじゃないから」
「はーい」
二人の会話を聞いていた廸子さんはふふふと笑う。
「凜さんはきぬさんの本当のお孫さんみたいですねぇ」
「たしかに、本当の孫よりもかわいいね」
「あ、孫と言えば……最近、アキマサ、来ないね」
凜は首を傾げた。廸子さんも天井を見上げる。
「そうですねぇ。そろそろ来る頃でしょうか」
きぬさんはフン、と鼻で笑う。
「金が無くなればせびりに来るさ。ロクなやつじゃない。定職について、小遣いくれるほうだろうに」
凜は心の中でそっとため息をつく。きぬさんの次男の息子のアキマサは今年二十五歳になるが、高校を中退してゲーマーになるとかユーチューバーになるとか言いながら特に何もせず、バイトをしても一か月と続いたことはない。
いまだに親のスネをかじっていて、時々祖母にも小遣いをせびりに来る。きぬさんが渡さないと、財布からこっそり抜き取っていくこともある。抵抗してケガでもさせられると困るので、見つからない場所に凜がきぬさんの通帳や金を管理している。
「そろそろ、用心しておかなきゃね」
「そうですね」
凜と廸子さんは頷きあった。
「ブネー」
廊下の奥から、へんな鳴き声聞こえる。三人は声のするほうを振り返った。
まんがだったら「ボテボテ」という擬音が描かれそうな足取りで、太った三毛猫がゆっくりと歩いてくる。
「ミケオ」
凜が微笑んで手を差し出すと、太った三毛猫は凜の膝の上に大儀そうに乗ってきて、金色の目を細めてごろごろと喉を鳴らした。凜はぼたもちのような大柄な猫の頭を撫でた。
「お前また大きくなったね?」
「食慾の秋じゃないかね」
「そうですね。最近はよく食べますねぇ」
きぬさんはあきれ、廸子さんは苦笑した。
「夏頃は食慾なかったのにね」
「私よりトシだからね」
ミケオは凜が小学六年生の時に、きぬさんの家の物置に忍び込んだ猫が生んだうちの一匹だった。母猫は子猫たちを置いて消えてしまったから、どこかで事故に遭ってしまったのかもしれなかった。
四匹のうち、三匹はよそにもらわれていった。ミケオだけはきぬさんになついてそのまま居ついてしまった。もう十六歳で、人間で言えば八十歳を超えている。
三毛猫はメスであることがほとんどだが、ミケオはオスだった。超希少な猫だ。子猫のころから鳴き方が変わっていた。「にゃあ」と鳴けない、ちょっと個性的な鳴き声。
ペットショップや愛猫家が譲ってほしいと何人もやってきたが、きぬさんは誰にも譲らなかった。ミケオはきぬさんの長年の「相棒」だ。
「もう戻るわ」
凜はミケオを座布団の上にのせると立ち上がって二人にさよならを言った。
いつも通りの、静かな日常。心が乱されることもなく、荒れることもない。凜は今の生活が気に入っている。
家のカギを開けて中に入る。
日は傾きかけて、作業場兼居間はオレンジの翳りになずんでいる。
スマホの着信音が鳴る。ラインのメッセージの音。ソファに座ってメッセージを見ると、加奈からだった。
『今夜飲みに行かない?』
浅いため息をついて凜はすぐに返信する。
『風邪を引いたから当分外出はしないわ』
嘘も方便。
どうせ彼女の思い通りにならないことのグチを延々と聞かされるだけだろう。せっかくの仕事終わり、のんびりしたい。
彼女がこの前言っていたこと……高木が結婚して外国へ行ってしまえば、きっとそのうちに加奈も凜のことは忘れてくれるだろう。会社を辞めて二年経つ。仲が良かったのならば仕方がないが、凜に隠れて凜の恋人と付き合っていたちゃっかり後輩だ。凜が「妻むき」だったなら、加奈は「遊びむき」だったのだろう。加奈も早く高木のことは忘れて前に進むべきだと思う。
加奈と会ったあの夜……
凜はくすっと思い出し笑いをした。
この前、きぬさんを背負って公園の前から連れてきてくれたひと。仁。廸子さんの息子さんの建築会社の社員さん。
トイレの前でぶつかったひと。
「そんなにびくびくしなくても、取って食いやしねぇよ」
そう言って、苦笑した仁。
あ、と凜は目を見開く。もしかしたら、びくびくした態度を彼に勘違いされたかもしれない。今更ながらにそう思った。
彼が怖かったわけではない。顔とか格好とか、服装が怖いわけではなかった。
仁の身長は軽く百八十五センチはあるだろう。凜は百五十六センチほどだ。
凜は、大柄な男性が怖いのだ。
仁は背が高かった。その高さに、無意識に体がこわばってしまったのだ。
「ああ……失礼なことしちゃってた……」
両手で頭を抱えると、凜は恥ずかしさに悶えた。
願わくば、今度また会うことがあったら、失礼を詫びたい。たとえ仁が忘れていたとしても。
会うことはないと思うけれど、廸子さんの息子さんの会社の人だから、その辺ですれ違う人よりはまた会う確率は高いかもしれない。
なんだったら、廸子さんに会わせてもらうこともできるかもしれないし、この近所だという現場を教えてもらって行ってみれば会えないこともない。
いや、そうじゃなくて。
「……」
何を考えているの? 私。
我ながらちょっと怖い、と思い、凜は苦笑した。
きぬさんちの縁側で、凜の作ったきぬさんちの茶の間のミニチュアを、子供みたいな好奇心いっぱいの目でいつまでも見つめていた仁を思い出す。久々に、きぬさんや廸子さん以外の人と結構話をした。居酒屋のトイレの前でぶつかりそうになったことを除けば、初対面みたいなものだったのに。珍しく人見知りせず、結構自然に話せた自分を不思議に思う。
しかし、柄にもなく妙に浮かれた気分になっていたが、すぐに気が沈む。
いや、会わないほうがいい。私は、誰とも知り合わないほうがいい。
あたりもなくはずれもなく、このまま淡々と日常が送れればそれでいい。
そうすれば、誰にも過去を知られることもない。
望まなければ、手に入らないとがっかりすることもない。
知らなければ、悩むこともない。
そうしてやり過ごせばいい。
温室の奥に傾くオレンジ色の夕日をぼんやりと見つめながら、凜は心の中のチョコレートの箱は開けまいと思った。