A Box of Chocolates
3
心の中のチョコレートボックスは開けまいとあれだけ自分に誓ったのに。
二週間くらい経ったある日、事件が起きた。
作業部屋兼リビングで凜がミニチュア制作をしていると、珍しくお隣から激しく言い争う声が聞こえた。凜はすぐにピンと来て、急いできぬさんの家に向かった。
サンダルをつっかけて慌ててお隣の玄関の引き戸を開ける。
「きぬさん!」
サンダルを乱雑に脱ぎ捨てて茶の間へ向かう。仁王立ちになった少々ぽっちゃりした青年と、同じく仁王立ちになって青年に対峙する老婆がこたつの脇にいた。
凜はいまにも老婆の抱えている巾着を奪い取ろうと手を伸ばすところだった青年の手首をばしんと叩き落した。
「アキマサっ! なにしてるのよっ!」
「痛えっ! てめっ、凜!」
青年――きぬさんの外孫のアキマサはチッと舌打をして、凜に叩かれた手首をもう一方の手でつかんで凜を睨みつけた。
「おまえ、孫でもなんでないくせに、ばあちゃんの金どこに隠したんだよっ?」
「だからって財布からお金取ろうとしてるわけ? きぬさんがケガでもしたらどうするのよ?」
「知るかっ! お前には関係ない、帰れ!」
いくら幼いころから知っていても、いまやアキマサのほうが凜よりも大きい。凜がアキマサの腕をつかんだところで、アキマサはびくともしない。それどころか、アキマサが腕を一振りすれば凜は軽く飛ばされて、壁に肩をしこたま打ち付けてしまった。
「凜ちゃん! これアキマサっ! 女の子に何する!」
「ウザいんだよこいつ! 孫でもないくせに口出しして! どうせばあちゃんの金狙ってんだろ!」
「ばかっ! それはお前だろう! 凜ちゃん、大丈夫?」
きぬさんは孫を罵倒して凜の腕に触れる。凜は体勢を整えて自分の腕に触れているきぬさんの柔らかなシワシワの手にそっと触れて微笑む。
「大丈夫だよ、きぬさん。アキマサ、あげるお金なんてないよ、帰りなよ!」
アキマサが凜を憎々しげに睨みつける。
凜ははっと目を見開く。
アキマサの目つきに狂気が宿る。彼は右手をぎりぎりと握り締める。そして左手で凜の腕をつかむ。
きぬさんが悲鳴を上げる。殴られる! 凜はとっさに目を固く瞑《つむ》った。
「きゃぁぁ! 凜さんっ!」
どさどさと荷物が落ちる音とともに、買い物から戻ったらしい廸子さんの悲鳴も上がった。
凜は自分に落とされるであろう衝撃を覚悟する。
腕を乱暴につかまれて体の向きが変わる。
とっさに両手を頭の上にかざして防御姿勢をとる。小さなころは体格も力も勝っていたが、いまやそれらは逆転している。
「あがっ!」
リンゴ?
赤いものが飛んできて、アキマサの顔面に当たった。アキマサは顔面を押さえてしゃがみ込む。彼の手の隙間からは血がしたたり落ちる。鼻血だろうか。
ぼとり、とリンゴが落ちる。
凜もきぬさんも呆然とする。廸子さんは胸に手を当ててほうと安堵の息をつく。
廸子さんの後ろから大きな人影が茶の間に飛び込んで、アキマサの上に乗りあがり押さえつける。
「女に手を上げるなんて、最低な奴だなっ!」
アキマサの鼻血が顔の下半分にべったりと広がる。目には涙が浮かんでいる。もがいてはいるが、大柄な仁が押さえつけていてびくともしない。
「は……鼻っ! 折れたらどうすんだよっ……」
アキマサは泣きごとを叫ぶ。きぬさんがふんと鼻を鳴らす。
「折れたって構やしないね。金欲しさに女に手を上げるなんざ、お前なんて孫じゃないね!」
「仁、放り出してきて」
廸子さんの言葉を受けて、仁はアキマサのパーカーのフードをつかんで軽々と持ち上げて玄関のほうへ引きずり出した。
アキマサは少々ぽっちゃり気味なので重いはずなのに。まるで猫みたいに持ち上げられる。玄関の扉の外で、何やら言い争う声が少しの間聞こえてきた。
そして玄関の扉が閉まる音。
「大丈夫か? きぬさん、凜さん」
仁は二人に気遣いの言葉をかける。凜はへたり込み、壁に背を預けている。きぬさんもその場に座り込んでいる。廸子さんはきぬさんの背にそっと手を添える。
「いいところに来てくれたね、仁、助かったよ」
きぬさんは仁を見上げて安堵の笑顔を見せた。それを見て仁はほっとする。そして彼は凜の前にしゃがみこみ、彼女の顔を覗き込む。
「凜さん?」
凜は名前を呼ばれて、はっと我に返ると仁を見上げた。そしてやっとのことでこくこくと頷いた。
「二度と金をせびりに来るんじゃねぇ、また来たら俺がフクロにしてやるって脅しといたよ」
仁の言葉にきぬさんはあははと笑った。
「ありがとうねぇ。本当にいいタイミングだったよ。凜ちゃんがあのバカに殴られなくてよかった」
「あれが噂のバカ孫か。あれは甘やかしすぎだな」
「こら仁! 失礼なこと言うんじゃないよ!」
「いや、ほんとのことだよ。仁や凜ちゃんみたいな孫ならよかったんだけどねぇ。小さいころは病弱だったから、ほんと、甘やかしすぎたんだろうね。でもこれに懲りて、自分で稼ぐようになってくれるといいね」
「そろそろ来るころだって言ってたろう? 本当に来たな」
「当分は凝りて来ないだろ。仁はこれからもたまに遊びに来ておくれよ」
きぬさんと仁は親指を立ててにっと笑み合った。廸子さんはそのやり取りを呆気に取られて見ていた凜にそっと教えてくれた。
「最近、大体アキマサさんが来そうな時間帯に、仁に来てもらうようにしていたんですよ。私やきぬさんでは、アキマサさんを抑え込むことができませんからね」
「あ、そうだったんですか」
そうとも知らず、飛び出して突き飛ばされて殴られそうになった自分が、凜は少し恥ずかしくなった。
「そうだよ。あんたも向こう見ずだな。いくら小さいころから知っていても、ああなったら力で負けるとか思わないのか? 殴られたらあんなへなちょこでも、あんた吹っ飛ぶよ?」
仁が突然、凜に視線を向ける。凜は息が止まるほど驚く。思わず胸に手を当てて肩をすくめる。それを凜が自分におびえていると取った仁は思わず両眉を上げて両手を目の前で振る。
「お、脅かしてるんじゃねぇよ。注意だ、注意」
きぬさんが苦笑する。
「違うよ仁、凜ちゃんはあんたが怖いんじゃなくて、大柄な男が怖いんだよ。あんたみたいな大柄な男にそういう風に言われ慣れてないからどうすればいいのかわかんないだけなんだ」
「は?」
仁は間抜けな声を上げ、縮こまる凜を見る。そして何か思い当たったようにああ、と頷いて穏やかな表情になった。
「悪かったな。大きな声で言って。あんたはばあちゃんを助けようとしただけだもんな。でも無茶はだめだ」
こくりと凜は頷いた。仁は笑ってよし、と頷いた。
それから凜は三人の様子を観察して少し驚いた。仁はごく自然にきぬさんちの茶の間に溶け込んでいる。聞けばこの二週間ばかり、仁はアキマサ対策にきぬさんちをちょくちょく訪れていたらしい。
「本当に、しっかりしていて頼りになるよ。アキマサと同い年とはねぇ。見習わせたいもんだよ、まったく」
きぬさんの嘆きに凜は目を丸くしてえっ? と声を上げる。
アキマサと仁が同い年ならば、仁は凜より三つ年下ということになる。それに、以前一緒に働いていた加奈とも同じはずだ。
「と、年上かと思った……」
「まぁ、老けて見られることは多いな」
仁ははははと軽く笑った。
アキマサに突き飛ばされて殴られそうになったことは、思いのほか衝撃的なことだったらしい。凜の足腰はがくがくで、うまく立って歩けなかった。それで仁の手を借りて支えてもらい、自分の家に戻ることにした。
「実はさ、ミニチュア、よかったら見せてもらいたいんだけど。あ、俺だけで怖いなら、廸子さん、ちょっと一緒に来てくれよ」
話をふられた廸子さんは明るく笑い飛ばす。
「あんたを信用してるから。凜さん、仁はいい子なので、安心してくださいね」
「私、別に怖がっては……」
「仁、凜ちゃんをよろしくね」
きぬさんと廸子さんに見送られて、仁に肘を支えられ、凜はサンダルを履いて自分の家に戻った。そして仁の望み通り、作業部屋兼リビングでただいま作成中のミニチュアの家具と、完成品のいくつかを披露した。
「うわぁ、すげぇ!」
仁は小学生のように目を輝かせて、いろいろな角度から凜の作品に見入った。
コーヒーを淹れてお皿にロシェを五個置いてだすと、作業机の椅子に座った凜は力の抜けた笑みを浮かべる。
「コーヒー、どうぞ。よかったらチョコレートも」
「ありがとう、いただくよ」
仁は何も入れずにコーヒーを飲む。凜は仁がミニチュアに見入っているのを見て微笑む。
「そういうの、お好きですか?」
「……凜さん、敬語いいよ」
「え? あ、はい……」
「俺さ、ガキの頃からお菓子のおまけとかのこういうの好きでよく集めてたよ」
「そうなの? 私も集めてた。食品サンプルの小さいやつとか、パンや野菜、家具とか……」
「懐かしいな。でも凜さんの作るやつはめっちゃ精巧だな」
「実物の実寸がわかれば、PCに取り込んで3Dで縮尺するから」
「なるほど。だから正確に縮尺できるんだな」
「前の仕事が役に立ってるの」
「ああ、建築会社にいたんだっけ? 俺も今年、受けてみたよ。二級建築士」
「そうなの?」
「去年、建築設備士は取ったんだ。製図がちょっと自信ないかな。もし落ちてたら、来年また受けようと思う」
「製図なら、わからないこときいてくれれば」
「お、ありがたいね。試験前に知り合いたかった。落ちてたら、来年はお願いしようかな」
仁は凜に笑った。凜は小さく息を止める。ふわり、胸の中が不安定になる。
「なぁ、これ、写メってもいいかな? 英介……廸子さんの息子に見せてやりたいんだ」
「え? ええ、どうぞ」
子供みたいな笑顔で訊かれて、凜は正体の知れない狼狽を悟られないかとひやひやしながら口角を上げて頷いた。やった! と嬉しそうに言って仁はスマホで凜のミニチュアをいろいろな角度から写メる。
その嬉しそうな様子を見て、凜はくすっと笑う。
この角度だ、いいね、こっちからか、とぶつぶつ呟きながらミニチュアを撮る仁を見て、ほんの数週間前に居酒屋のトイレの前でぶつかったことを思い、不思議に思う。
背の高い仁に初対面ではおどおどしてしまったけれど、きぬさんを背負ってきてくれたりアキマサをたたき出してくれたりして、今は怖いとは思わない。
それどころか……
『凜ちゃん。凜ちゃんは小さなころから不味いチョコばかり引き当ててきたから、これからの人生は、おいしいチョコがいっぱい出てくるんだよ』
亡くなった祖母が言っていた言葉が、ふと頭をよぎる。
『でもね。自分からチョコレートの箱に手を入れて引き当てようとしなければ、チョコレートは箱の中に入ったままなんだよ』
亡くなった祖父もそう付け足した。
凜は祖父母に引き取られる前に、ずいぶんいろいろなことをあきらめる子供になっていた。
幸せなんて、自分には関係のないことだと思っていた。
だから大人になってからも、淡々と毎日が過ぎていけばいいと思い、地道に生きてきた。
初めて恋人ができて幸せとはこういうものかと思っていたけれど、「妻むき」としか思われていなかったと知ったときも、どうせそんなことかと苦笑いしただけだった。
「じゃぁ、失礼するよ。コーヒー、ごちそうさま。今度あいつが来ても、無謀な真似はするなよ。まぁ、当分来ないとは思うけど」
スマホをしまった仁が右手を上げる。去りかけた背中に考えるよりも先に凜は必死で声をかけていた。
「あのっ!」
凜は後先考えずにチョコレートをひとつ、引き当ててみることにした。
凜の声に仁が振り返る。
「うん?」
凜は挙動不審になりながらも、せかせかと温室に続くウッドデッキのほうに向かい、床のある一点を指さした。
「ここ、なんですけど……これ、依頼できる、かな?」
白いペンキが所々剥げたすのこの木床。四十センチ四方のボックス型の赤い布張りのスツールを凜がどかすと、ニ十センチほどの板の割れ目が現れた。
「ありゃ」
仁は近づいて板の割れ目を覗き込んだ。
「ここからネズミが来たらイヤなので、ずっとふさいでいたんだけど……」
「あー、古くなってもろいんだね。ここだけふさぐなら、今度道具持ってくるから、すぐにふさげるよ」
「仁さんの暇な時でいいので……」
「オッケー。あ、じゃあ、俺の名刺渡しておくね」
仁は作業着の胸ポケットから薄い黒の名刺入れを出して、その中の一枚を凜に差し出した。名刺を受け取った凜は目を大きくする。
「えっ、専務、って」
宇野建設、専務、本宮仁
「現場が好きなもんで」
仁は肩をすくめて笑った。凜は急いで作業机の引き出しから自分の名刺を取り出して仁に渡した。
「これ、私の名刺」
Rin Nakayama
「肩書はなし?」
「なし」
「自営だな」
「ある意味」
凜はくすっと笑った。