A Box of Chocolates
4
「凜ちゃんにしては、めずらしいこと」
きぬさんはにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「何が珍しいんですか?」
廸子さんがお茶を入れながら首を傾げる。
「会って間もない相手と、普通に話したりして。いつもはもっと人見知りだからね。仁はよほどいい子なんだな」
きぬさんが静かに笑う。
「ええ、いい子ですよ。まあ、昔は多少やんちゃもしましたけど」
廸子さんがふたりにお茶の用意をしながら、やわらかく苦笑する。
「私ゃ、おんな孫はいないけれど、いたら凜ちゃんみたいな子がいいな。こんなお人形さんみたいにかわいくて、そのうえ穏やかで優しくて。それで、おとこ孫なら仁みたいな子がいい。男前で頼りがいがあって度胸があって」
きぬさんは微笑みながら自分の薄い肩に置かれた凜の手に、自分の手を重ねてぽんぽんと叩く。
「この前、凜さんにミニチュアを見せていただいたじゃないですか? あの子、うちの息子にその写真を見せて、ふたりでずいぶん盛り上がっていましたよ。凜さんの作品のインスタもチェックして、それからまたさらに盛り上がって騒いでいました」
「は、恥ずかしい……」
凜は肩をすくめる。
「あの、凜さん、それでですね、うちの息子と嫁が凜さんにぜひ作品を依頼したいので、一度伺いたいといってるんですが……もちろん、お忙しくないときで」
「えっ? はい、ぜひ!」
大きな瞳を驚きで丸くする凜に、廸子さんは安堵のほほえみを向けた。
「ああ、よかった。ありがとうございます。あの子たち、大喜びしますわ」
「あとで名刺持ってきます。いつでもご連絡くださいとお伝えください。どうせずっと在宅ですから」
「仕事が増えてよかったね、凜ちゃん」
「うん、よかったわ。ありがとうございます、廸子さん」
「いえいえ、仁が話したんですよ。私はお勤め先のことは話せませんからね。家族にもね」
仁から電話が来て、日曜日に床板を直しに行ってもいいかと訊かれ、凜は承諾した。
秋晴れの真っ青な空が広がる日曜の午前十時半、道具箱と板を抱えて仁が黒い軽トラックで凜の家にやってきた。やるべき仕事を前日までに無理やり終えた凜は、長い髪を無造作なシニヨンにしてジーンズにオーバーサイズのチャコールグレイのパーカー姿で仁を迎え入れた。
仁は仕事で現場に行くときのような作業着ではなく、やはりジーンズに黒のトレーナーのようなカジュアルな格好だった。
凜は頭にタオルを巻いていない仁を見たのは初めて会った居酒屋以来だったので、なんか新鮮で、こっそりと観察してしまった。
真っ黒な長めの前髪は無造作に流されていて、ところどころ目の前に落ちているさまが、なんとなく色っぽい。初対面で凜がすこし怯んだ鋭い目つきは、いまでは慣れたのかそんなに怖くは思えない。
作業を見ていてもいいかと訊くと、仁は破顔して承諾した。
ミニチュアを作るときの参考にしたい凜の意図を察しているらしい。
木目に沿って斜めに割れた部分の板から釘をはずす。板を抜き取り、サイズを測る。持参した板を合うサイズに削り調整する。水性のクリア塗料のグレイや白を少しずつ混ぜて色味を調整して板に塗る。
少し乾かす間、凜はウッドデッキの温室寄りに出したテーブルにお茶の用意をした。
晴れていればサンルーフに覆われたウッドデッキは暑いくらい暖かいので、水だし緑茶を出す。
お茶請けは豆大福。凜が訊いたわけではないのに、仁の好物だときぬさんが教えてくれたのだ。
「結構大きな温室があるんだね。一般家庭には珍しいよな」
小さめの豆大福を椅子に座るやいなや、ぱくっと一口で平らげてから、仁は温室を見て言った。一口食べに、凜はちょっとびっくりする。
「祖父が祖母のために作ったの。私の父……一人息子が交通事故で亡くなって、夜は眠れないしご飯も食べられないくらい憔悴しきった祖母を慰めるために」
「そうか。お父さん、いつ亡くなったの?」
「私が小学一年生の時。私は二年生からここで祖父母と暮らし始めたの」
凜は仁の向かいの席で自分のぶんの豆大福のお皿を仁のほうに押し出して微笑みながら言った。
「父が亡くなって一年くらい後に、母親が男の人と暮らし始めて、私のことは邪魔になったのね。それで、見かねた祖父母が私を引き取ってくれた」
仁は凜の差し出した豆大福をもう一つほおばると、少し片眉を上げた。
「あ、あのね、母親の相手の人が結構背の高い大きな人でね、時々、機嫌が悪い時や酔っぱらった時にその人が私を殴ったことがって。だからいまでもちょっとトラウマがあるみたいで……」
「だから……この前、きぬさんがああ言ってたのか。凜さんは大柄な男が怖いって。最低だな、子供に暴力振るう男は」
仁が眉根を寄せる。凜は苦笑する。
「私には祖父母がいてくれたからよかったの。時々ここで、夜に三人でソファに座って映画を見たのよ。すごく楽しかった。でもこの温室もかなり老朽化してきて……それで仁さん、こういうものの修復もお願いできる?」
「ああ、もちろん。今はこの近くの現場に出てるから、そこが落ち着いてからでもよければ。英介にも訊いてみるわみるわ」
仁は冷たい茶をすすりながら口の端を上げた。そして茶碗を置くと何の意図もない瞳を凜に向ける。
「お母さんはどうしてる?」
凜はその質問にはっと小さく息をのみ、口の端にあいまいな笑みを浮かべる。
「さあ、どうしてるかな。私を引き取るときに、祖父が縁を切ったから……七歳から一度も会ってないわ」
「そうか」
「でもべつに会いたいとは思わないし、話すこともないし……私は祖父母と一緒で幸せだったし、今はきぬさんもいるから」
仁は穏やかな笑みを浮かべた。
塗料の乾いた板をはめ込み微調整すると、そこはまるで穴が開いていたところに新しい板をはめ込んだようには見えないくらいに、自然に修正された。
凜は感動して目を丸くする。道具を片付けた仁に気づき、慌てて話しかける。
「仁さん、ありがとうございます! いくら払えばいい?」
すると仁はうん? と両眉を上げて凜を見下ろす。
「いや、別にいいよ。金いらない」
「よくないよ!」
凜は慌てる。
「じゃあ、さっきの豆大福でよしとしよう」
「だからよくないってば!」
「あの板は現場で出た木っ端だし、塗料も俺の私物だしなぁ。ほんとに気にしないでくれ」
笑う仁とは対照的に凜は困り果てる。はっと目を開いて仁を見上げる。
「ならば! お昼ごはん、おごります!」
凜にしては珍しく強引さを発揮して、バッグを肩にかけると仁の腕をひっっぱって近所の小さなイタリアンの食堂に連れて行った。
「なんでも好きなもの食べて! いっぱい食べて!」
メニューを仁の目の前にぐいと差し出しながら凜が力強く言うと、向かい合って座っていた仁がぷはっと噴き出した。
「メシ食いに拉致られたのって、初めてだよ」
「えっ?」
はっと少しだけ冷静さを取り戻し、凜は焦り始める。
「あ、あの、ええと、違うとこがよかった? ここ、私がよく来るところで……」
小ぢんまりとした店内をくるりと見渡して、仁は笑顔を凜に向ける。
「いや、いいよ。じゃあ、メシ、食おうか」
凜の差し出すメニューを受け取って仁がページをめくりだす。凜はほっと安堵する。どれが美味いのかと訊かれ、あれもこれも、それもと答え、結局単品でサラダやパスタ、ピザや肉料理をテーブルに載せられるだけ頼んだ。
「うまっ!」
モッツァレラチーズを薄切りの豚肉にまいてから揚げにしたものに、仁は目を瞠《みは》る。思わずあれもこれもと食べきれないほど頼みすぎてしまったという凜の後悔は、どんどん料理を平らげる仁を見ているうちに杞憂に変わっていく。
凜はフォークを持ったまま、ぽかんと口を開けて仁の食べっぷりに見とれてしまっている。
異性と外で食事をするなんて、高木と付き合っていた時以来だった。でも高木は普通の量を普通に食べるだけだったので、凜にとって仁の食慾は見ていて新鮮で、驚きと感動が入り混じっていた。ひとくちが大きい。がつがつしているわけではないのに、流れるように次々と平らげていく。
「なに? 見てないで食べなよ。おすすめなんだろ? まじ美味いな、どれも」
ぽかんと見ていた凜に気づいて仁が言う。凜はくすりと笑う。
「仁さん、気持ちいいくらいきれいに平らげていくね」
「ああ、小さいころ、食べ物残すと廸子さんにひっぱたかれてたからかな」
「廸子さんちでよくご飯食べていたの?」
「うん、そうだよ。俺んちは母子家庭だったんだけど、母親は夜の仕事してて、物心ついたころから夜は一人が多かったんだ。ほとんどネグレクトで、何でも自分でやってた。見かねた廸子さんがメシを食わしてくれてたんだ」
「そうだったの……」
「母親にはかわいがられた記憶がない。五歳の子供一人家において、一週間帰ってこなかったことなんかざらだったな。七歳くらいの時は一万円だけテーブルに置いて、男と海外旅行に行って十日間帰ってこなかったりとか。結局、ずっとそんな感じでろくに会話もしないまま、おれが高校を出るころにはある日突然姿を消したんだ」
「それでずっと廸子さんちでご飯食べてたの?」
「ああ。高校のころからは英介と一緒にバイトして食費は入れてた。あそこも母子家庭だったからな。とにかく、あのひとは俺と英介を分け隔てなく育ててくれた。箸の持ち方とか食事の作法もうるさかったな」
はは、と仁は笑った。
「しこまれたんだ?」
「うん、しこまれた。どこに行っても恥ずかしい思いはしないようにって、礼儀作法には超厳しかった」
二人は笑み合った。
凜がトイレから戻ると、仁はくすりと笑った。
「なんか、思い出した。居酒屋のトイレの通路でぶつかったっけな」
「そう。なんか、不思議。あれからなぜかこうして一緒にご飯を食べてるなんてね」
「そうだな。公園の前できぬさん拾って、それが再会になって。なんか不思議だな」
「仁さん、今度はちゃんと見積り持ってきてね、温室の修繕」
デザートの生チョコみたいにカットされたジャンドゥーヤとエスプレッソが出てくる。ジャンドゥーヤを口に含んでからエスプレッソを流し込むと、チョコレートとナッツ、コーヒーが混ざり合って薫る。
「わかったよ。さて、ごちそうさま。美味《うま》かった。ここ、英介たちにも教えてやろう。で、凜さん、韓国料理好き?」
「好き!」
「よく行く店があるんだ。そこのカルビッチムが最高にうまいんだけど、ここ教えてくれたお礼に今度連れてくよ」
きゅ、とうれしさで心臓が跳ね上がる。凜は平静を装ってこくこくと頷く。
「あの、会社辞めてからあまり外食の機会がないので、ぜひ行きたい!」
「この前、居酒屋にいた時はまさか一人じゃなかったよな?」
苦笑する仁に凜は首を横に振る。
「あの日は二年前に辞めた会社の後輩の子が、愚痴るために連絡してきて。なんて言い訳して帰ろうか、考えていたことろ仁さんとぶつかったの」
「あー、愚痴聞くメシは美味くないよな。思いつめた表情してたから、腹でも痛いのかと思った」
凜もふふと笑う。ふと、仁が目を細める。
「そういう表情《かお》もするんだな」
凜の心臓がまた跳ね上がる。そう言っている仁も、穏やかな笑顔でいることに、本人は気づいているのだろうかと凜は思う。
どうしていいのかわからずに凜が困り顔でやんわり苦笑すると、仁がはっと息をのんで首を横に振った。
「あ、いや、文句じゃねぇよ。逆、な。なんかうちとけた感じがしたって思っただけ。俺のこと、もう怖くないんだろう?」
「仁さんが怖いなんて言ってないし……トラウマでびくついちゃうだけ。あ、そういえば……まだ謝ってなかったわ。ぶつかったときは、ごめんなさい。トラウマとはいえ、失礼な反応をしてしまって」
「気にしなくていいよ、もうわかったから。そろそろ出るか」
席を立ち、凜はレシートを探すが見当たらない。レジに向かい店員を呼ぼうとすると、仁の大きな手が凜の華奢な肩に添えられて、背後から店の外に押し出した。
「ちょっと、仁さん? まだ払ってないのに」
「うん? 会計は済んでるよ」
店の外に出て、ドアが閉まる。凜は困惑して仁を振り返り仰ぎ見る。
「だめでしょう? 私がお礼におごるって言ったのに!」
凜の肩を放して仁は彼女の目の高さまで自分の目線を下げて屈みこみ、にっと笑む。
「ウッドデッキの穴ふさぎの謝礼は、豆大福ふたつで済んでる。久々にヤロウども以外と飯食って楽しかったよ。礼の礼だな。ありがとう」
「では、せめてワリカン……」
至近距離で麗しい顔に見つめられ、凜は赤面していることを自覚している。しどろもどろに瞳が泳ぐ。仁は口をへの字に曲げる。端正な大人の男の表情が、とたんにいたずら好きの小学生のように見える。
「こういうのってさ、キリがないからここでやめような?」
その夜、凜はベッドで横になり、昼間のことを反芻《はんすう》していた。
結局、ランチは凜が負けて仁におごってもらってしまった。そのあとまたいろいろな話をしながら家の前まで戻ってきた。仁は「じゃあ、また」と言い残し、乗ってきた黒の軽トラックで帰って行った。
信じられない、と凜は思う。今まで生きてきて、あんなに自然に、饒舌に誰かと話したことなどなかった。
「……」
仁といると、まるでなにか途方もなく不安定な何かの上を歩いているような、楽しく危うげな気分になる。もっと話していたい、もっと一緒にいたいと思ってしまう。今まで、身近にいなかったタイプ。言葉がぶっきらぼうな時があるけれど、凜が誤解しないようにすぐにあたふたと説明を付け足す。
ふふふ、と凜は笑みを漏らす。
そしてすぐにほう、と横たわったまま吐息を漏らす。
二年間付き合っていた高木とでさえ、あんなに楽しくご飯を食べに行ったことはない。高木はいつも自慢と、会社や同僚の悪口を言っていた。そして凜にはつねに何も意見は求めなかったし、凜が何をしていて何に興味があるのか、どんな食べ物が好きなのかさえも訪ねなかった。
両親は健在なのかは一度だけ訊かれたことはあったけれど、それ以外の幼少期のことや学生時代のことは訊かれたことなど一度もなかった。
幼少期と言えば……自分の幼いころのことを他人に話したのは、初めてだった。思い出すだけで呼吸が乱れて不安に押しつぶされそうになるし、心が乱れる。でも、昼間、仁に話したときは何でもなかった。とても自然に客観的に話すことができた。
そして、仁の子供の頃の話。
仁は幼いながらにひどい目に遭ったようだけれど、無事に生きてこられてよかったと思う。
廸子さんの息子と仲が良くて、廸子さんが面倒を見てくれてよかったと思う。
そらから、(これは凜の自己満足だけれど)初めて会った時の失礼な態度を謝ることができてよかった。
それからそれから、一緒にランチに行って、たくさん話をして、ちょっとは親しくなれてよかったと思う。
凜はまたふふふと笑みを漏らす。温室を修繕してもらえることになったし、韓国料理のお店に連れて行ってもらう約束も(確定ではないけれど)できた。
おじいちゃん、おばあちゃん。
また、チョコレートボックスの中に手を入れてみたくなったわ。
再びほう、と吐息して、凜は静かに目を閉じた。