A Box of Chocolates

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「凜ちゃん、坂の下の洋食屋のしんちゃんが驚いていたよ。凜ちゃんがこの前の日曜日に、背の高い男前と昼ご飯食べに来たって。そりゃたぶん仁のことだろうから、うちの凜ちゃんもやるときゃやるんだよって言っといたよ」

 きぬさんがこたつで編み物をしながら不敵な笑みを浮かべた。

「な、ななな、違うよ! ウッドデッキの穴を直してもらったんだけど、修理代訊いてもお金はもらってくれないから、お礼にお昼ご飯をご馳走しようとしただけ!」

「なんでも、すごくいい感じだったらしいね。あの食いっぷりにしんちゃんが惚れたって言ってたよ。あれは凜ちゃん、逃したらダメだって言っといてってさ」

 あはは、ときぬさんが朗らかに笑う。若いっていいね、なんて付け足しながら。

「いやですよ、だからってまさか、あの子ったら凜さんにお昼代払わせたりしなかったでしょうね?」

 オレンジ風味のチョコレートのプリンと淹れたての紅茶を凜の前に差し出しながら、廸子さんは眉根を寄せた。凜は慌てて首を横にふるふると振る。

「あ、いえ! 出してくれました! 払わせてくれなくて……だから結局はお礼にならなかったの」

「それでよろしいんです。凜さんとランチに行って、すごく楽しかったって言ってましたよ」

 にっこり頷く廸子さんの言葉に凜は照れてうろたえ、きぬさんはうんうんと頷く。

「いい傾向だよ、凜ちゃん。変なのに引っかかったら私も黙っちゃいないけどね。仁なら大賛成だよ。今度は、温室の修繕を頼むんだろう?」

「うん。正確には、廸子さんの息子さんの会社に依頼するの」

「ありがとうございます、凜さん。社長にはおおまけするようにくれぐれも伝えてありますからね。施工は専務自らが買って出てますから」

 廸子さんはくすくすと笑う。きぬさんが「?」を頭の上に浮かべながら首を傾げる。凜は挙動不審に目を泳がせ、紅茶をすする。


「せんむ?」

「はい、専務が」

「息子さんの会社では、役員が施工するのかい?」

「現場大好きな変わり者でしてね」

 廸子さんが凜と目を合わせていたずらっぽく笑う。凜は紅茶のカップをソーサーに置いて、きぬさんに上半身を傾けて言った。

「つまりはそれって、仁さんだよ、きぬさん」

「えっ。あの子は専務かいね?」

 へあー! と感嘆してきぬさんは目を丸くした。

「現場が好きなので、なかなか事務所にはいないような専務ですけれどね」

 廸子さんが苦笑する。

「ウッドデッキの穴、もうどこが穴だったかわからないよ」

「そうかい。じゃあタツさんとアイコさんの温室も、きっときれいにしてくれるだろうね」

 きぬさんは毛糸を編み進める手をとめて、穏やかに笑んだ。うん、と凜は頷く。

「凜さんのおじいさまが、おばあさまのために建てられたんですよね」

「そうです。二人の形見みたいなものです」

「あの温室が建てられて半年くらいしてから、凜ちゃんがあの家に来たんだったね。凜ちゃんのおかげでアイコさんも生き返ったみたいに元気になって。あの家でまた笑い声が聞こえるようになったんだっけ」

「おじいちゃんとおばあちゃんがいてくれたから、私は幸せだったよね。あの温室は、私の宝物なの」



 二年前、高木のプロポーズを断ったのは、結婚したら家を手放さなくてはいけないと言われたことが主な理由だった。「あの家は売ろう」と高木は言った。その言葉を聞いた途端に、凜は不安に押しつぶされそうになった。

 母親とその交際相手に虐待されて心身ともにぼろぼろに傷ついた凜は、祖父母の家で時間をかけてゆっくりと癒されていった。自分にとってのかけがえのない避難場所がなくなるかと思うと、呼吸の仕方も忘れてしまうくらい胸が苦しくなった。

 もちろん、大切なものでも手放さなければならない時が来ることはわかっている。それでも、それを手放してもいいと思えるほど、凜は高木と結婚したいとは思えなかった。それは会社で高木が加奈に凜のことを「妻むき」と言っていたのを聞いてしまったということもあるけれど、それを知ることによって凜自身も高木にたいして、それほど愛情がないことに気づいたからでもあった。


 凜にとっては、高木よりも祖父母の思い出がたくさん詰まった家を手放さないことのほうが、はるかに大切だった。

 プロポーズを断った時、高木は呆然とした。凜が断るはずはないと確信していたからだった。涙を流すわけでも取り乱すわけでもなく、ましてやすまなそうにするでもない、淡々とした凜の態度に不快感をあらわにした。悔し気に眉と口元をゆがめただけで、「わかった。じゃあ、終わりだな」と言って去っていった。

 不思議なことに凜は、去ってゆく高木の後姿を眺めながら心が軽くなっていた。毛玉を飲み込んでしまったようなもやもやとした喉と胸のつかえが、すっと消えていった。

 回避すべき危機を回避できたことへの、達成感すら感じていた。

 祖父母の遺してくれた家も温室も、凜にとっては大切な存在だ。これからも手放すつもりはない。



 お茶の時間が終わって自分の家に帰るついでに、凜はきぬさんちの縁側から外に降り立って植え込みや縁の下を覗き込み、最近姿が見えなくなったミケオを探す。

 結構な肥満体だし高齢でもあるために、あまり遠くには行かないはずだ。それなのに食いしん坊の三毛猫は、ここ十日ほど餌を食べに戻って来ていない。いままでも数日姿を消して何気ない顔で戻ってくることがあったけれど、最近は年齢が年齢なので少し心配していた。名前を呼んでもどこにも気配がない。

 きぬさんちの庭を出て、自分の家の温室の裏側あたりも探してみる。ぐるりとひととおり近所を回ってみても、あのずんぐりと愛嬌のある体形は見当たらない。

「……」


 ここ数日、なにか胸騒ぎがする。今まで名前を呼べば「ブネー」と鳴いて返事をしていたのに、呼びかけても返事がない。三毛猫なのにオスであるがゆえに、何度か誘拐されかけたことはあった。さすがにもう高齢すぎるので攫われる危険はないとは思うが、もしかしてどこかでケガでもして帰ってきたいのに来られないかもしれないかと思うと心配でならない。

 気が付くと家から一キロほどの公園まで来ていた。

 来たついでに、遊具のトンネルの中や茂みに呼び掛けてみるけれど、ミケオは見当たらない。このところ毎日散歩代わりに朝夕近所を探しているけれど、さっぱり見つからない。

 傾きかけた夕日でオレンジに染まる池をベンチに座って眺めながら、凜はため息をつく。さすがに、こんな遠くまでは来ないかもしれない。

 猫の行動範囲はとても狭いから。最近は日が昇る前と沈んだ後は気温がぐんと下がる。

 超高齢猫には過酷なはずだ。赤い首輪にはきぬさんの家の住所が書かれているので野良猫として捕獲されることはないとは思うが、どこにも姿が見えないのでとても心配だ。

 結局、ミケオは今日も見つからなかった。凜は夕日の中、とぼとぼと家路についた。



 翌朝も凜は近所を一回りしてみた。でもやはりあの愛らしい肥満猫はどこにもいなかった。

 その日は土曜日で、廸子さんの息子夫婦が作品の依頼に来る予定があった。普段ならば依頼者に直接会うことはほぼない。ネットで注文を受けて、製作途中のやり取りもメール、遠隔地の場合は完成から確認、送付までもすべてネットで済ましている。しかし今回は廸子さんの家族で仁の親友夫婦でもあり、ほかの作品も見たいという熱望に応えることにした。


 やわらかな秋の日差しが作業部屋に差し込む午後ニ時半、玄関のベルが鳴らされた。

 ドアを開けるとそこには若い男女がいくぶん緊張気味に立っていた。男性のほうは細身で背が高く、一見サーファーのような感じ。長めの茶髪に白いトレーナー、ベージュのカーゴパンツに赤いエアジョーダンを履いている。初対面なのにどこか親近感があるのは、目元が廸子さんに似ているから。女性のほうはやはり細身で背が高く、サラサラの茶色いロングストレートヘア。パステルブルーのロングニットに白のスキニーパンツ、黒のレースショートブーツ。保育士だと聞いていたけれど、モデルみたいだ。

「初めまして、廸子の息子の英介と妻のエリカです」

 二人はぺこりとお辞儀した。

「初めまして。中山凜です。廸子さんにはお世話になっています」


 作業場兼リビングのソファに二人を通して、凜は淹れたてのコーヒーをだす。エリカからはお土産にトリュフをもらった。

「この前のピスタチオのチョコもおいしかったです」

 凜の言葉にエリカが頬を染める。

「はい、義母(はは)から聞きました。今日は同じお店の別のチョコをお持ちしてみました」

「ありがとうございます。チョコ大好きなので、うれしいです」

 はやくも英介は机に張り付いて作業中の凜の作品に見入っている。それを見てエリカが苦笑して凜にすみません、と言う。凜は笑顔で首を横に振る。

「この前、仁から写メを見せてもらって、あたしたち感動しちゃったんです。あたしの誕生日が近くて、何がいいかって考えていたので作品を依頼しようってことになって、無理にお願いしちゃいました」

「マジですごいですね! 仁から聞いていたけど、ナマで見ると本当に精巧だ」

 英介が凜の作品から目を離さずに感嘆する。凜は照れ笑いをする。



 エリカの依頼は、息子の子供部屋だった。今住んでいる家は、英介が建てたのだそうだ。

「英介はあたしに、居場所をくれたんです。そのなかでも一番のお気に入りは、子供部屋なんです。これから息子が大きくなっていったら、今の可愛い部屋が変わっちゃうから、赤ちゃんぽいものが残った部屋をずっと手元に置いてみていたいと思って」

 凜に来るミニチュア作成依頼は人によってさまざまだ。むかし住んでいた家、新婚旅行で訪れた城ホテルの部屋、物語や小説の舞台、ドールハウス。外国のビクトリア朝やロココ調の部屋。海辺の別荘や高原のコテージ。茅葺の日本家屋、韓国の伝統建築(ハノク)。みんなそれぞれが思い入れのあるものを依頼してくる。

二人は子供部屋の設計図、いろいろな角度からの写真、3Dのデータを持参してきた。どうやら仁の入れ知恵らしい。誕生日は来月だというエリカに凜は謝る。

「すみません……納期は半年ほど先になります」

 それでも、二人は快諾してくれた。

「そらならばたぶん、温室の修繕が終わるのと同じくらいになりますね」と英介は言った。

「あ、そちらの見積もりは、いつぐらいに……」

「はい、近日中に、仁がお持ちしますよ。本当は今日、俺たちがお持ちしても、え、あっ?」



 何かを言いかけた英介の左の頬を、エリカが焦った様子でつねり上げ、小さな子供を叱るように夫をメッと睨みつけた。凜は小首をかしげる。英介は妻が何を注意したいのかわかったようで、はっと口をつぐんだ。

「あの、凜さん、お仕事の話はここまでにして、ごはん、ごはん食べに行きませんか? 仁も呼んで」

「そうそう、行きませんか? 友達の小さいメシ屋なんですけどね。言えば何料理でも出てくるんですよ」

「えっ」

「今夜は息子は義母(はは)が見てくれるんです。行きましょ、行きましょ?」

 ね? ね? と若い夫婦に詰め寄られ、土曜の夜に別に何の予定もない凜はこくこくと頷いた。






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