A Box of Chocolates

7



 日曜日、昼少し前に凜は目が覚めた。



 寝室のカーテンの隙間からは、小春日和のあたたかな光が差し込んでいる。

 今までにない幸福な気分で目覚め、深く息をついて目を閉じる。

 アルコールは一滴も飲んでいないのに、ふわふわとした心地よい疲労に包まれている。凜は布団のぬくもりの中でうっそりと微笑んだ。

 仁に家まで送り届けてもらったのは、今朝四時過ぎくらいの頃だった。まだ真っ暗で気温もひとケタ台だったけれど、まったく寒さを感じなかった。



 昨夜、一時間ほど車を走らせて着いた海岸で、シートを倒してサンルーフを開けて夜空を見上げながら、二人はたくさんの話をした。もともと新車で遠乗りに行こうとしていた仁は上機嫌で、いつにもまして饒舌だった。それにつられて凜も、誰にも話したことのない自分自身のことを饒舌に語った。

「俺にとっての家族は、英介たちなんだよ。血はつながってないけど、兄弟だな」

 保育園で初対面の時、仁と英介は何が原因だったのか忘れたけれど、取っ組み合いの大げんかをしたらしい。それでも、いつの間にかいつも一緒にいるようになった。悪さをして怒られるのも一緒。いいことをしてたまに褒められるのも一緒。

 エリカは小学校から親友になった。彼女は父親が外国人で、物心ついた時にはもう両親は離婚していた。

 今ではほとんど混血に見られることはないが、小さなころは髪の色が薄く、顔立ちもすこし日本人離れしていたのでよくからかわれたりいじめられたりしていた。仁と英介は弱い者いじめが死ぬほど嫌いな子供たちだったので、エリカをいじめる子供たちにケンカを吹っかけては打ち負かして服従させたらしい。

 ショウタは転校してきたちょっと気取った子供だった。姉と兄が一人ずついてけっこう裕福な家庭の子供だったが、小学生にしてすでに、お小遣いで株を買ってさらに増やすのが趣味だった。末っ子で甘やかされていて、付き合うのはいつも年上だったらしい。

 仁と英介は中学のころからやんちゃを繰り返した。先生たちをからかったり、授業をさぼったり。いじめっ子を陰でシメたり、他校の生徒とけんかしたり。

「一度、高校生にカツアゲされていたクラスの奴を助けに入ったら、英介がバットで殴られて腕を折ったことがあったんだよ。俺はそのバット野郎を殴り返して手の骨を折って、そいつは顔面の骨が折れた。結構な大問題になったけど、廸子さんは俺たちをほめてくれたっけ。片親しかいないからとか、親に捨てられてるからだとか、そいういふうに言うやつらなんて気にするな、正しいと思ってかつ後ろめたくなければ、やりたいことを堂々とやればいいって言ってさ。すごい肝っ玉かあちゃんだろう?」

 楽しげに話す仁に、その時の廸子さんの様子が容易に想像できた凜は笑って頷く。以前、仁のことを廸子さんは「いい子ですよ」と微笑んで言っていた。

「誰か、わかってくれている人がいると、なんだかうれしいよね」

 凜の言葉に仁はうん、と頷いた。

「俺たちのせいで学校や警察に何度呼び出されて頭を下げても、怒ってこないんだ。ただ、自分たちの行動をよく考えて、自分たちなりにどうするべきか考えるようにしなさいって言うだけ。それで英介も俺も、後先考えずにけんかするのはやめたんだ」

 その上、二人はちょっとはまじめに勉強もするようになった。エリカとショウタが勉強を見てくれて、無事四人で同じ高校に行くことができた。

「高校生の時はバイト三昧だったな。ファミレス、ポスティング、カラオケ、新聞配達とか。でも、金を稼ぐ楽しさに今夢中になったらダメだって言われて」

「廸子さんに?」

「いや、ショウタに」

 凜はお腹を抱えて笑った。


「ショウタは小学生のころから株で貯金してたし、将来はなにか起業したいって目標があったんだ。エリカも保育士になりたいって。英介さえも、父親が遺した会社を継ぐって決めてたんだ。ふと気づいたら、俺にはやりたいことがなかった。そしたら英介が、会社を手伝ってくれって。それで高校卒業と同時に大工見習になった。英介に将来何があるかわからないからって言われて、夜間の大学で経営も学んで。そんなときに」

 仁の声が少し悲しそうに低くなる。

「十八から付き合ってた彼女に子供ができたんだ。俺は養うつもりで必死に働いたんだけど、信用できないから産めないって、そいつはある日黙って勝手に始末してきて。俺なんか待ってなんかいられないって、ほかに男作っていなくなった。母親と同じことされた」

 凜は星空を見上げる仁の横顔を見た。諦めたような、穏やかな表情。凜はシートから頭を浮かせ、上半身をひねって仁のほうを向く。

「あのね、昔祖父母とよく温室の前のウッドデッキで、夜に映画を見たって言ったでしょう? 三人とも、『フォレスト・ガンプ』っていう映画が好きで、何度も見ていたんだけどね。その中に『人生はチョコレートの箱なようなもので、中身を取るまでは何が取れるかわからない』っていうセリフがあるの。おじいちゃんがそれで私に言うの。人生って、そういうものだって。何度かはびっくりするほどまずいチョコを引き当ててしまうこともあるんだって。でも箱の中には、まずいチョコばかりが入っているわけじゃないって!」

 仁は凜の勢いに少しびっくりして、そして星を見上げたままくすっと笑った。

「なるほど。面白いね。その映画、見たことないけど」

 凜の言いたいことは、ちゃんと仁に正しく伝わったらしい。凜はうれしくなった。

「じゃあ、見よう、今度。うちの温室のウッドデッキで!」

 仁ははっと目を見開いて、星空から凜に視線を移して呆然とする。凜も我に返り、自分がどんな大胆なことを言ったのかと後悔して固まる。三秒ほど沈黙ののちに、仁がふと笑顔になる。

「うん、見よう。一緒に」

 凜は心の中で安堵した。そしてうれしさのあまりちょっと泣きたくなる。思わず涙が出そうになり、サンルーフのはるか上空に散らばり瞬く星々を見上げた。


 あの時、凜は自分の気持ちを確信した。


 思い切って引き当てたチョコレートは、今まで生きてきた中でも全く引き当てたことのない種類の「あたり」だった。



 幼いころに母親の恋人から暴力を受け、母親は凜には無関心だった。彼女は、幼い娘が虐待されていても何もしてはくれなかった。

 祖父母に引き取られて心の傷は癒されていったが、その経験は彼女をとても内向的な子供にした。あまり自己主張をせずおとなしいままに成長し、どこでも目立たない存在になった。

 大学の時に初めて二年上の先輩と付き合った時は、付き合おうと言われたから付き合った。やがて別れたいと言われたときは、素直に承諾した。 

 高木とも、むこうから誘われて、結婚を前提に付き合おうと言われたから付き合った。そう言われたからには、そのうち高木と結婚するのだろうとなんとなく思っていた。

 自分が華やかな、女としての魅力にあふれた女ではないことは気づいている。異性にアピールすることもない。だから向こうから見染められたのなら、それでいいのかもしれないと思っていた。

 好意を享受して、うまく合わせていけばいい。自分の人生にはなにか劇的なことが起きるはずはない。「まずい」チョコレートでなければ、やり過ごしていける。ずっとそう思っていた。



 仁に出会って彼のことを少しずつ知るたびに、凜は自分が欲張りになっていることに気づく。もっと知りたい。もっと一緒にいたい。

 それでも今までずっとなんとなく受け身だったので、どうしていいのかわからない。

 嫌われたらどうしよう? いや、それ以前に、なんとも思われていなかったら? 迷惑がられたら?

 きぬさんにからかわれると、照れ隠しに否定ばかりしてしまう。まだ中学生のほうがはるかにうまく対処できると思う。



 はぁぁ、と大きなため息をつきながら凜はころんと体を反転させてベッドの中から出る。



 夢、だったのかもしれない。

 そう思うくらい、楽しかった。


 クローゼットの取っ手にハンガーで吊るしてある大きなネイビー色のマウンテンパーカーを見る。真夜中過ぎの冷え込みに、仁が貸してくれたもの。

 小柄な凜が着ると、まるで大人服を着た子供みたいだと仁は笑った。

 凜はそっと手を伸ばして上着の袖を持ち上げる。ベルガモットやウッディノートのすっきりしたあたたかな香りがふんわりと漂う。凜は泣きたくなる。わけもなく大声で泣きたくなる。

 せつなくて切なくて、胸の中がいっぱいになって気持ちがあふれ出てくる。



 シャワーを浴びて着替えをして、キッチンに行きコーヒーを淹れる。

 秋の澄んだ日差しがキッチンや作業場兼居間に燦燦と降り注いでいる。仁はまだ寝てるかしらと思う。

 凜はくすっと笑みを漏らす。淹れたてのコーヒーにミルクとヘーゼルナッツシロップを入れて、甘い香りにうっとりと目を細める。

 四時間と少しくらいしか眠っていないのに、なんだかとても満ち足りた気分だった。

 そんな感覚は初めてなのでなんとも形容しがたいけれど、とにかく、苦しいのに幸せな気分だった。

 今朝別れ際に、今週中に見積を持ってくると仁は言っていた。少なくとも一回は、今週また仁に会える。そうだ、それまでに何か、上着のお礼を用意しようか。

「……」

 はっと我に返って、凜は自分でもとても狼狽する。

 起きてからずっと、仁のことばかり考えている。

 どうしたらいいのかわからずに、凜は困り果てる。そうして昼食をとるのも忘れ、気が付くと太陽は傾きかけていた。



 日曜の夕方から、作業の合間に凜は仁へのお礼の品を制作していた。合間のはずがつい熱が入って時間を忘れてしまい、それは火曜日の昼には完成してしまった。

「昨日も顔をお見せにならないから、きぬさんが心配なさってましたよ」

 おやつの生チョコレートとコーヒーを出して廸子さんは言った。それで凜は今週が始まってもう二日もたったことに今やっと気が付いた。

「土曜日は夕飯を英介さんにごちそうになってしまいました」

「いえいえ、二人ともすごく喜んでいましたよ。お時間取っていただいてありがとうございました。ショウちゃんとこに行ったって言ってました。あの子たち、楽しかったようで代行で帰って来たんですけど……凜さんのことは仁が送ると言っていたんですが、大丈夫でした?」

「はい、送ってもらいました。新車に乗せていただいてしまって」

「えっ?」

 廸子さんは驚いて目を見開いた。凜は首を傾げる。

「え?」

「あ、いえ。そう……そうでしたか。ふふ」


 肩をすくめて笑う廸子さんに凜はさっきとは逆側に首を傾げる。廸子さんは嬉しそうに言う。

「新車が届いてからまだ誰も乗せてくれないって、うちの息子がぼやいていたのを思い出したので。てっきり社用車で出かけたとばかり……」

 今度は凜が驚く。赤くなったり青くなったりせわしなく顔色を変える凜に、廸子さんは優しいまなざしを向ける。

「凜さん、仁をよろしくお願いします。私の自慢の息子もどきです」

「えっ? そんな、私こそよろしくお願いします」

 二人はぺこりぺこりとお互いに頭を下げあった。



 水曜日の午後三時半。玄関のベルが鳴る。

 作業着姿で頭にタオルを巻いた仁が玄関に立っているのを見て、凜は心が跳ねる。

「現場上がりでそのまま来たんで、汚いまんまなんだけど」

 仁は申し訳なさそうに苦笑した。凜はにっこり笑ってどうぞと仁を招き入れた。

 作業場兼居間のソファに仁を座らせて凜はコーヒーを出す。

「土曜日は、ありがとう」

 向かいに座りぺこりと頭を下げると、仁は「おう」と言った。

「これ、上着。ありがとう。それでね、お礼にこれ、作ったんだけど……」

 紙袋に入れたマウンテンパーカーをまずは差し出し、それから手のひらに乗せたものを仁の目の前にことりと置いた。仁の視線が凜が差し出したものに注がれて、その目が驚愕で大きく見開かれた。

「ええっ?」

 彼はそれを手に取っていろいろな角度から凝視する。

「うそ……これ、作ったの、か?」

仁の声が上ずっている。凜は小さく頷いた。

「二十四分の一のサイズだよ」

 それは仁の車を紙粘土で縮小再現したものだった。ナンバープレートまで仁の車と同じ、黒のレネゲード。

「すごすぎる! なんだこの再現度!」

 仁は驚嘆して言葉も出ないようだ。小学生の男の子のように目をキラキラさせて、それを見つめ続けている。

「まさか、この二、三日で作った?」

「作業の空き時間に。ペーパーウェイトくらいには、なるかな……」

「いや! これは飾る! 家宝にする! ありがとう!」

「そんな、家宝だなんて……」


 仁のあまりの興奮した様子に凜は苦笑する。喜んでもらえたようなので、良しとする。

「これはうれしいでしょ。この世にたった一つだよ? 本当に器用だな……」

 しばし自分の愛車のミニチュアを鑑賞して仁ははっと我に返り、自分の傍らに置いてあったA4サイズの茶色い封筒から見積書を引き抜いて凜に差し出す。

「あ、失礼。ええと、温室修繕の見積書をお持ちしました」

「ありがとうございます」

 凜は見積書を手に取って見て首を傾げる。

「仁さん、これ、すごく安くない?」

「ああ、社長の母親が、身内価格でやれと社長に命じてるからな」

「これで損はないの? 英介さんの会社に利益にならないんじゃないの?」

「そりゃあすごい利益にはならないけど、損もない。気にしなくていいよ」

「そう……廸子さんにも、お礼を言わなきゃね」

「いつでもいいだろう。それよりも凜さん、今日はまだ何か仕事あるかな?」

「あると言えばあるけど、ないと言えばないけど」

「メシ、食いに行かないか? これのお礼がしたい」

 仁は車のミニチュアを左手に乗せて笑んだ。

「それはお礼なのに、そのお礼するの?」

「世界に一つだぞ? ぜひ、お礼したい」

 いったん家に帰って着替えてから迎えに来るから、と言い残して仁はうれしそうにに帰って行った。

 もちろん、凜も叫びだしたいくらいうれしくなった。





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