いねむり姫 ~魔女姫と呪われた若君~
2
森で襲われてから八日が経っていた。
ヴァラは相変わらず行動範囲が狭い。
城にいるときは居住している北の塔、庭園、庭園の奥の楢の木の下などで過ごしていた。いねむりするとき、ふわふわ雪が弟妹達に連れていかれてしまった場合は、必ずヒューが一緒にいた。
ヴァラが眠っている間、ヒューは傍らで本を読んでい過ごした。ヴァラが覚醒しておもむろに手帳に夢の内容を書き込み始めると、ヒューは興味深そうにのぞき込み、彼女が書き終えると古代文字や図形、呪文について質問した。
自らも呪いがかけられているヒューは、呪いについて多少は学んでいるようだった。オガム文字やルーン文字をいくつか読めるようで、ヴァラは感心した。
最近は二人でいる時間が圧倒的に多いし、お互いに一緒にいることがかなり自然になりつつある。
「おもしろくないわ」
灰色の重い雲が立ち込める暗い朝、ハイデは紅茶のカップを前に腕くみをして唇を尖らせた。
午前中の踊りのレッスンをお腹が痛いと言ってずる休みした彼女は、同じく頭が痛いと言って歴史の授業を仮病で休んだイェルとともに、三人分のお茶の用意を携えて北の塔のヴァラの部屋を訪れている。
「何が?」
ヴァラがカップに唇を近づけてお茶の香気を深く吸い込みながら訊く。
「最近のあなたは、私たちとはちっとも一緒にいないじゃないの」
ハイデは恨みがましい視線をヴァラに向ける。彼女の隣でイェルもうんうんと同意して頷く。
「ずっと北家のマイヤー卿とばかり一緒でさ。すごく仲良さそうで。ヴァラ、わかってる? 彼、婚約者がいるよ?」
「そうだよね。今は……ええと、何番目の、だっけ?」
「五番目、いや六番目か」
もごもごと文句を垂れ流す二人を見て、ヴァラはため息をつく。
「あなたたち……ヒューに妬いているの?」
二人は答える代わりに唇を尖らせてヴァラに非難がましい視線を向けてくる。そういう幼い表情をすると、腹違いながら二人はよく似ている。
「文句があるならバルに言いなさい。ヒューだってきっと好きで私と一緒にいるわけではないの。バルに命じられたからなのよ」
「でも彼は嫌そうに見えないわ」
「ヴァラもね」
「そうね、嫌じゃないわ」
否定もせずにふっと意味深に笑むヴァラを、ハイデは恨めしそうに見る。
「そこは私たちの手前、ウソでも否定してみたらいいじゃないの?」
「わざわざ心にもないことを言う必要がどこにあるの?」
うっ、とハイデは言葉に詰まる。そして悔しそうにテーブルをたたく。
「と、とにかく、私たちのことも忘れないで一緒にいてよね。今日は森の魔女のところまで付き合ってもらうからね」
「どうしてあなたがばばのところに行く用事があるのよ?」
片眉を上げてハイデにいぶかし気な視線を向けるヴァラの問いにはイェルが答える。
「発注しておいたモノができたって連絡が来たから、取りに行きたいんだってさ」
「直接行くことないじゃない? 侍女に行かせなさいよ」
ハイデは首を激しく横に振る。
「だめだめ、直接もらい受けに行く必要があるの。とても大事なものだから。今日は天気が怪しいから、大雨が降りだす前にもらい受けてすぐ帰ってこないと」
「それなら、天気のいい時にいけばいいでしょう?」
「だめよ、今日中にほしいのよ。本当に大事なものだから」
急にしおれた花のように元気なくうなだれる異母姉に、ヴァラは深いため息をついて優しく言った。
「わかった。一緒に行くから」
瞬間、喜びに満ちた表情でハイデはヴァラの首に飛びついた。
「ヴァラ、大好き!」
「ヒューも行くからね。バルにも森に行くって言ってこないと」
「私の用事で行くって、言わないでね」
「なぜ?」
「なぜでもよ。ただ一緒に行くとだけ伝えてよ?」
普段にはない頑なな態度が少し気になったが、ヴァラはわかった、と頷いた。
森の老魔女の庵につくと、やはり彼女は一行の到着を知っていたかのようにお茶の準備をして迎え入れてくれた。
ヴァラとヒュー、イェルの三人は、入り口近くのソファでお茶を飲んでいる。お供のふわふわ雪は毛玉の子犬の姿でヴァラの隣、ソファの上で丸くなって眠っている。
奥のテーブルには老魔女と緊張気味のハイデが向かい合って座っている。老魔女はハイデの前に小さな二つの小瓶を差し出す。赤い液体と、青い液体。
ヴァラはそれらを見るやいなや、はっと息をのみ立ち上がってテーブルに駆け寄った。
「ハイデ!」
ヒューとイェルは驚いてヴァラを目で追う。ハイデはヴァラを見て固まっている。
「どうしてこんなものをっ……」
ヒューは向かいに座るイェルに首を傾げる。「こんなもの」の正体を一応は知っているイェルはそれを受けて苦笑して肩をすくめる。
にらみ合うヴァラとハイデの間で、老魔女は何の感情もなくヴァラに言う。
「姫よ、お前様が腹を立てることはあるまい。王女殿下からはすでに対価もいただいていて、これは正式な取引なのだよ。王女殿下が何を注文しようが報酬を支払ってくださる限り、当事者ではないお前様に口を出す権利はない」
ヴァラは言葉に詰まり、代わりにイェルを振り返って非難する。
「イェル、どうして止めなかったの? 知っていて取引させたの?」
「知っていたけれど……魔女殿のおっしゃる通りだよ。ハイデが望んだんだ。私には邪魔をする権利はないよ」
ヴァラはいらだって下唇をかみしめた。ヴァラの様子など少しも気にすることなく、老魔女は薄灰色の長いマントを羽織る。
「さて、ばばは黒い森のはずれまで用事があり出かけねばならないのでな、姫よ、帰るときは呪をかけて戸締りをして帰っておくれ。今夜は荒れそうだ。嵐になる前にお帰りくだされ。ばばは三日ほどで戻る故」
「……」
ヴァラが何かを言おうとしたときにはすでに、老魔女は忽然と姿を消していた。彼女にはいつものことであったが、突然目の前で老魔女が消えたので、ほかの三人は驚愕の表情で固まってしまった。
「ハイデ……」
ヴァラは怒りとも避難とも悲しみとも取れない、複雑な表情で異母姉を見つめた。
いつもヴァラに叱られると唇を尖らせて逆に怒り出すハイデは、今回はしおらしくうつむいて悲しそうな表情で視線を落とした。
「今回は……見逃してほしいの。私の輿入れが来年の春に決まったと、一週間前に父上からお話があったのよ」
「えっ?」
ヴァラは驚きに深い青の瞳を大きくする。そしてため息とともに肩を落とした。
いまだに何のことなのかわからなくて首を傾げて目で訴えてくるヒューに、イェルは左手で口元を隠して顔を寄せ、こっそりと囁いて教えてやる。
「あの赤いのと青いのはね……ほれ薬と媚薬なんだ」
「はい?」
ヒューは逆側に首を傾げた。
テーブルではヴァラが眉根を寄せる。
「見逃したとして……ハイデ、これらを一体いつ誰に使おうとしているわけ? まさか……」
「そうよ。まさかよ。初恋を終わらせてから嫁いで、あちらでも結婚相手と……自分に使うわ」
「……対価は、何だったの?」
魔術師や魔女に力のないものが頼みごとをするときは、それ相応の対価を支払わなければならない。ハイデはヴァラのほうを見ずにテーブルを見つめたまま白状する。
「私のリラと……それを弾きこなす才能」
「ハイデ!」
「……」
「あなたのおじいさまが遠い海の国からあなたのために買い求めてきたあの素晴らしいリラ? それを引く才能を?」
「し、仕方ないじゃない! もうすぐ外国に……一度も会ったこともない相手に嫁ぐのよ? 私はヴァラみたいに誰もが認める美しさはないし、姉なのにヴァラの妹にしか見られなくて子供っぽいってしか言われないし! これくらい何よ? せめて初恋は完結させて去りたいわ!」
「どうしてばばに頼んだの? そんな薬くらい……私なら、対価なんてなしに作ってあげるのに……」
「それ以前に、反対してごまかしてうやむやにして、最後は作ってくれないじゃない」
「そんなこと……」
「あるよ! 絶対にそうなっていたわ!」
「……」
キッ! とハイデは非難のまなざしをヴァラに向けた。