いねむり姫 ~魔女姫と呪われた若君~
2
悲鳴はクリプトの外側、通路のほうから聞こえた。
そちらに駆け出そうとするヴァラの腕をとっさに捕まえてヒューが引き戻す。
彼は人差し指を立ててヴァラを見る。ヴァラは青くなりながらも小さく頷く。
ヒューは手のひらを向けてその場にいるようにヴァラに合図して、ゆるい階を音を立てないようにそっと降りる。右手の指は腰にさした剣の鍔に掛かっている。
「ヒュー」
ヴァラは小声でヒューに呼び掛けてそっと彼の肘を引く。
ヒューが振り返ると、ヴァラは彼のブルーグリーンの瞳を見つめて声をひそめて言う。
「あの男が来たみたい……森で見た、あの魔術師よ」
本能的な恐怖心でヴァラの指は震えている。
ヒューはそっと左手をヴァラの差し出された手に重ねて自分の肘から離して右手を重ねた。
その時。
ゆらり……
三方の壁の等間隔に取り付けられたたいまつが、一斉に同じ方向に揺らぐ。
はっと顔を上げた二人の正面、クリプトから続きの扉の前に、黒っぽい長い衣をまとった大きな人影がいつの間にか見えた。
ヴァラがびくりと身を縮める。
ヒューはヴァラの手をきゅっと握る。
目深にかぶったフードの奥で、鼻から下の細いあごが見える。どうやらまだ若いようだ。シワはなく、輪郭は引き締まっている。薄い唇の両端がくいっと吊り上がる。
「あれは……実体ではないわ」
「え?」
「あの男、本体は別のところにあるのよ。エドセリクの結界内には、物理的に侵入することができないみたいね」
ヴァラの言葉に男はしゃがれた笑い声を漏らす。
「いかにも、エドセリクの結界が厳しすぎて、わが身は城内に入ることがままならなぬ」
「実体がなければ、力も半人前の私とはそう変わらないはず」
「さて、どうかな」
男にしては高めで、女にしては低く太い声。歌うように楽しそうに話す。
「実体ではないって……どう見てもそこにいる、生身の人間だけど……?」
ヒューの言葉にヴァラは後ろから説明する。
「あれは実物ではないの。なにか、簡素な……紙とか、藁とかで作られた人形のようなものに自分のツメや髪を付けて、分身としてどこかから遠隔で操っているの」
「なるほど」
実物でないならば、魔力も多少は弱まる、はず。
「お前の目的は何? 私の邪魔をすること?」
ヴァラは魔術師の幻影に向かって眉を顰め、疑問を投げる。
男はふん、と鼻で笑う。
「お前の邪魔をすることが目的ではない。邪魔をすれば、あの吝嗇家からはした金は入るがな。同じ血のものとして、お前の力の程度が知りたいだけだ」
「え?」
ヴァラは驚きを飲み込む。
「同じ血のものですって?」
男は口の端をゆがませた。真っ黒いとがった犬歯がちらりと見える。
「この国の王家に呪いをかけた、かの魔術師の血筋、ということだ」
「なっ……ほかの血筋は滅んだと聞いたことがあるわ」
「実際に、ここにいるが」
男は白く細い骨ばった手を自分の胸元にあてて、恭しく礼をした。
「そうだとしても、仲良くはできなそうね。クラム侯に金で雇われているでしょう」
ふふふ、と男は笑みを漏らす。
「二百年前の伝説によれば、『呪いを解けるのは我が血筋のみ』とのことだ。もしもお前の魔力が十分でないのなら、私にできて当然のはずだ」
ヴァラは眉根を寄せる。
ヒューを見ると、彼も同じことを考えているらしく首を傾げる。
目の前の魔術師は、エドセリクが夢の中で受けた啓示については知らないようだ。
「七番目の息子の七番目の娘に、呪いを無に帰する力を与える」ということを。
「――仮にそれが可能だとして、そうすることの目的は、単に自分の力を試したいだけなの?」
「ケチな侯爵の出すケチな報酬より、お前の代わりに私が呪いを解き、莫大な報酬を得ようと思ってな。一国に恩を売り、莫大な対価を求める。断るのならば、更なる呪いをかけてやればいい」
「自分勝手だな。すでにクラム侯からかなりの報酬を受けているだろう?」
「多ければ多いほどよい。そこの半人前の魔女にはかなわずとも、私には強い魔力がある。お前も邪魔をするのならば、排除するまでだ」
ざわざわと何ががぶつかり合い、擦れ合いうごめく音がする。不穏な気配にヴァラとヒューは息をのむ。
ヒューはヴァラを背後に隠し、腰から両手兼用長剣を引き抜く。
ふいに男の背後からなにか鋭い軌道を描いたものがいくつか飛んできた。ヒューが剣身で受けると、激しい金属音が鳴る。
剣にはじかれたそれらは壁に当たり床に落ちた。外国の金貨らしい。ヴァラは小さな悲鳴を上げる。
「エドセリクの守護がかけられた剣か。魔力で弾くとはこざかしい」
男は鼻で笑うとぱちんと指を鳴らした。
ぐるるるる……
大きな低いうなり声が響く。男の長い衣の後ろから、のそりと現れたもの。まだら模様のつやつやと光る、黒いしなやかな体。琥珀色の炯眼、鋼のような長いひげ。それは黒い豹だ。
ギラギラと輝く戦闘態勢の双眸は、低い体勢から確実に二人に向けられている。
それは、入り口の扉のそばに置かれていた黒豹の毛皮の敷物だった、はずだ。
「魔術で……生前の姿になったんだね……」
ヴァラが震える声で言う。
「実体でなくてもあんなことはできるのか」
「ヒュー、危ないから……」
「猛獣とは戦ったことはないけれど、とにかく下がっていて」
ヒューは一歩階を下りて、剣を上段に構える。
野生の猛獣に勝てる自信などさらさらない。せめて鋭いツメや牙でえぐられないように先制で致命的な一撃を加えられるように機会を狙う。
やるか、やられるか。しかし、もしも自分がやられたら、ヴァラも危ない。
「頼もしいことだな。姫君を守るのか。前回は人が相手だった、それなりに剣は振り回せていたようだが、野生動物の俊敏さにはかなうまい。闇からよみがえりし黒い獣よ、あの二人を引き裂き、噛みちぎり、血の海に沈めてしまえ!」
男が歌うように命ずると、黒い獣はさらに身を低くして今にも飛びかからんばかりに肩のあたりの筋肉を隆起させる。
オオカミ姿の時のふわふわ雪よりは一回りほど小さいが、一撃をまともに食らえばそれで命を落とすこともあるかもしれない。
咆哮が響く。
音無く跳躍した艶やかな黒い獣は、ヒューの顔よりも大きな前脚を広げ鋭利な爪を振り下ろしてきた。
ヒューよりも重い獣の全体重が、前脚の一撃にかけられる。まるで人間の拳のように真横から飛んでくるそれより数瞬速く、ヒューの長い剣身は豹の喉の左側から右胸にかけて素早く振り落とされた。
ギャァァァァ! っと、断末魔の叫び声が宝物庫に響く。
手負いの獣は床をのたうつようにして身を翻し、怒りに目を爛々と輝かせて再び飛び掛かってきた。
しかしひと太刀浴びたせいか、紅い口内からむき出した親指の先ほどの鋭い犬歯がヒューに襲い掛かるよりも、彼の剣が牙とともに横から飛んできた左前脚の先を切り落とすほうが速かった。
先ほどよりもさらに悲痛な叫び声が響く。
ヒューの太刀筋はよく甘いと注意されることが多いが、俊敏さでは今のところ彼の右に出るものには出会ったことがない。
ぱさり、と床の上に乾ききった豹の前脚の先が落ちる。するとすぐに本体のほうも頭の部分だけはく製の、体を広げてなめされたもとの敷物の姿に戻り、床に落ちた。
「ヒュー!」
脱力していたが、背後からのヴァラの声でヒューは我に返る。
足音からシューシューと威嚇音のようなものが聞こえてくる。シャァァという音でとっさに目の前に飛んできた物体に剣を振り上げる。
ブチン、という音がしてすぐ、足元に何かがびたり、と落ちた。それは体を両断された剣よりは少し小ぶりの、赤と黒の縞模様の蛇だった。
ヒューは肩で小刻みに息をつく。緊張が半端ではない。すぐに次の一匹が彼の足元に置きな口を開けて襲い掛かる。上から剣先を突き刺すと、蛇の首を貫いた。
ぴくぴくと蛇は体を痙攣させる。
ヴァラは必至で考えを巡らせようとする。
目の前の得体のしれない男は、祖父が張った城の中の結界内には入ってこられない。そのためにどこからか幻影の姿で術をかけてきている。実態ではないために、術の程度もあまり強力ではない。
どうするべきか?
森の中ではあの男のほうが魔力は強く、ヴァラは容易に魔力を封じられてしまった。しかし今ならば互角か、少し足りなくとも大きなダメージは与えられるかもしれない。
冷静に考えるの。鏡、ここに鏡はないかしら?
ヴァラはまわりを見回す。
鏡があれば、男の魔術の妨害ができるかもしれない。鏡、鏡。
「!」
目線の高さには見当たらなかったが、すぐ頭上に金細工の植物のツタのフレームの壁掛け鏡を見つけた。ヴァラは鏡を手に抱えると入り口近くにいる男に向けて小さく素早く呪文を唱えた。
ぐにゃり……
男の姿が水面の油のように歪む。男の纏う黒っぽい長衣が空間にグニャグニャに歪んでゆく。
あああ、残念だ、
そんな声がぼんやりと宝物庫に響く。
黒い煙のように、男の姿は鏡面の中に吸い込まれて行って消えてしまった。
同時に、襲い掛かってきた蛇たちの姿も幻のごとく消え失せた。