いねむり姫 ~魔女姫と呪われた若君~

3

静寂。



鏡を胸に抱えたヴァラは、ぺたりとその場にしゃがみこんだ。

ヒューは天井を仰ぎ深く息を吐く。剣身を確認すると、豹や蛇などを切りつけた痕跡は全く見られない。返り血も浴びていない。それを鞘に納め、階きざはしに座り込み壁に背を持たせかける。

彼はヴァラを振り返る。彼女は鏡を抱えたまま放心している。

ヒューは彼女のいる二段上まで這っていき、彼女の腕の中からそっと鏡を抜きとって壁際に立てかけた。

「ヴァラ、大丈夫?」

そっと肩を揺する。

「……」

「ヴァラ?」

ヒューの長い指が気づかわしげに彼女の頬に触れると、彼女はやっと我に返りヒューを見て彼の首に飛びついた。

「ヒュー! ケガはなかった?」


ヴァラの華奢な背を抱きしめながら、ヒューはやっと安堵のため息をついた。

「ないよ。もう少し長引いたら、頭が無くなっていたかもしれないけれど。正直、本当に危なかった」

ははは、とヒューは力なく笑った。

「生きている猛獣なんて、初めて見たわ。魔術だけれど」

「私もだよ。森の中でクマを見かけたことはあったけれど……」

ヴァラは腕を緩めて身を離し、自分の額とヒューの額をこつんと付けた。ヒューには、目を閉じているヴァラの長いまつ毛が見える。

「頭が無くならなくてよかったね……」

まだ少し震える声はかすれている。ヒューは目を細め、くすりと笑う。

「うん、そうだね」

ヴァラの濃い青の瞳が、ゆっくりと開かれた瞼の下からヒューを見つめる。

今にも泣きだしそうな、涙に潤んだとても美しい青にヒューは見惚みとれる。不安定にゆらゆらと揺れるエマイユのようなまなざしは、深い森の中の人知れず水をたたえる湖のようだ。


彼女は瞬きをすると同時に、小さく息を吸ってヒューの唇にそっと自分の唇を重ねた。そしてすぐに離れると、再び彼の額に自分の額を付けて不安に揺れる瞳で彼の驚くブルーグリーンの澄んだ瞳を見つめた。

ヒューはその美しさにしばし見惚れてしまっていただけだったが、何の反応もせずに間をおいてしまったため、しだいにヴァラの瞳に悲しみの色が勝ってきた。

彼はその変化を目にしてはっと我に返り、自分の沈黙がヴァラを拒否したのだと誤解されたと気づき、慌てて彼女の頬に触れて口づけを返した。勢い余り、ちゅ、と音を立てて唇を離すと、ヴァラは驚きに呆然としてヒューを見つめる。

「……頭が無くなっていたら、こうすることもできなかった、ね」

鼻先と鼻先が触れ合う。ほう、と息をつき目を伏せるヒューに、我に返ったヴァラはくすりと笑みを漏らし、かすれた声で静かに言う。

「ほんとうに、無事でよかった……」

美しい濃い青の目が細まる。ヒューは目の前のヴァラがたまらなく愛しいと思う。

触れ合ったままの鼻先は、ヒューが少し上を向いたのでお互い角度が広がる。鼻先の延長で、唇同士がかすれあう。

ヴァラはまた目を閉じた。ヒューが少しだけ角度をずらし、引き合う磁石の両極のようにヴァラの唇に口づけた。

彼の左手はヴァラの小さな頬から首をとらえる。ヴァラはヒューの首に腕を絡める。

先ほどの恐怖も危機も、三つの紅玉や呪いのことさえもすっかりと頭から抜け落ちて、今はお互いが目の前にいることを確かめ合い、無事を喜び合うことしかできなかった。



「これは……」

「ふわふわ雪……」

クリプトを通り抜けて通路に出ると、石の床に転がる小さな白い毛玉が二人の目に入った。驚くことに、それは毛玉に見える犬ではなく、本当に毛玉だった。

拾い上げたヒューがヴァラの手のひらにそっと毛玉を置いた。

ヴァラは毛玉に向かって小さく呪文を唱える。

ぽとりと毛玉が石床に落ちる、と同時に、それはもとの毛玉に見える子犬に戻り、二人を見上げてぷりぷりとしっぽを振りだした。

「意地の悪い魔法をかける魔術師ね」

「あの男、解呪について肝心なことは知らないみたいだったね。エドセリクの血筋以外、二百年前の魔術師の血筋は何代か前に絶えたと聞いたけれど、ちょっと調べてみる必要があるね」

「系図は王家が所有しているはずだから、バルが何か知ってるかも」

「では聞きに行こう」

頷きあうと、二人は暗い地下通路を後にした。



イェルとハイデは庭園の四阿《あずまや》にいる。

二人とも、憂鬱そうな浮かない表情をしていて、今が盛りのオールドローズの香しさを堪能しているようには見えない。

「ねぇ、ハイデ。まだヴァラと仲直りしていないんだね」

「だって……仲直りしたくても、あれ以来ヴァラは子爵とバルと何だか忙しそうで……どこにいるのかもよくわからないのだもの」

「結局、きみってさ……あんなにむきになって怒って、ヴァラとけんかしてまで持ち帰ってきたほれ薬も媚薬も……まったく使えていないよね。あの仲たがいに、いったい何の意味があったの? きみが飛び出して行っちゃうから私も追いかけなければいけなかったし、二人を置いてきちゃったし、あの後、嵐になっちゃったし……ヴァラは一人前になったのかなぁ?」

「もしもそうなら……もう解呪しているかもよ。あるいはもうすぐできるかも……」

は—―っ、とハイデは深いため息をつた。

ベンチに座ったまま、両脚をぶらぶらと揺らす。

「あ。噂をすれば、だね」


イェルは垣根の向こうの回廊を歩くヴァラとヒューに目を留める。

方角からして、王太子の居住宮に向かっているようだ。ハイデもイェルの視線をたどり、二人を見つける。

彼女はまた深いため息をつく。

「すごくお似合いだわ」

「美男美女、ああして一緒に歩いているだけでもまるで一枚の絵のように美しいね。そうだなぁ、タイトルは『呪いの魔女姫と呪いの若君』なんてね?」

 イェルは両手の人差し指と親指でフレームを作り、その中にヴァラとヒューの姿をはめ込む。

「すっかり子爵に奪われたわね、私たちのヴァラを……」

「うーん、すごく残念だよ。あんなにお似合いなのに、どう見てもお互いに気があるのに、彼には家同士が決めた婚約者がいるなんて」

「一度も面識がないんでしょう? お相手は死にたくないから領地から一歩も出てこないらしいって、バル兄上がおっしゃっていたわ」

「この前さ、ここでミンディとフーが子爵と偶然会ったみたいでさ。ミンディが子爵に一目ぼれして結婚を申し込んだんだって」

「やだ、あの子ったら。十一歳のくせにおませさんね。それで彼はおちびをどういうふうにあしらったの? ヴァラのほうがいいって?」

「まさか。にっこり笑って『婚約者がおりますので』って、ミンディを淑女扱いしてやんわり断ったらしいよ」

「あはは。そんな理由? 間違いではないわね。実際、そうだから。婚約者への気持ちは無いだろうけれど」

「おちびが相手にされないのは当然としても、ヴァラにはちゃんと幸せになってほしいよね……」

「そうね。魔女だからとか普通に結婚なんて興味ないとか言うけれど、好きな人ができれば考えも変わるかもよ。彼の婚約者だってもしかしてもうすぐ……彼が呪われているとしたら、きっと彼のほうもヴァラしかダメじゃないかしら?」

「私は、子爵にならヴァラを取られてもいいな。兄上たちの幼馴染だから、当然これからもずっと臣下として近くにいるだろうし、将来、侯爵夫人になっても何かの行事のたびに会えるだろうし」


「私はお嫁に行っちゃうから、ヴァラにもイェルにも会えなくなっちゃうけど……それでも、ヴァラがイェルや兄上たちの近くにいて、幸せでいてくれると安心するわ」

「ハイデ……ちょっとは精神的に成長したのかな? 嫁入りが決まると、じゃじゃ馬も周りのことを考えられるようになるんだね」

くすっとイェルが笑う。ハイデは唇を尖らせて同い年の弟の腕をたたく。

「お黙りなさい。あなたも、(ヴァラ)離れしてかわいいひとを見つけなさいよ。私がお嫁入してヴァラまでがそうなったら、あなたはおちびたちとつるむつもりなの? それならばまだ、兄上たちとつるむほうが健全よ?」

「ええ? どちらもいやだよ……」

 唇を尖らすイェルの髪を、ハイデはくすくすと笑いながらやさしく撫でた。



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