いねむり姫 ~魔女姫と呪われた若君~
3
執務室に行くと、机で書類に目を通していたバルが顔を上げて微笑んだ。
「来たね。イェル、ご苦労様。ヒューもちょうど戻ってよかった」
バルは立ち上がりソファへ向かう。イェルは役目を終えたので退出した。
「さっき本館の廊でクラム侯と鉢合わせしてしまって、私に呪いが解けないなら自分が適任者を探しますと嫌味を言われたわ」
「あー、あの例の魔術師のことだね。まあ、本当のことを教えてあげる必要はないから、そのまま言わせておけばいいよ」
「ちょうどそこに通りかかったんだけど。クラム侯が連れていた護衛三人は、森にいた奴らだったよ」
「そうか。キミが通りかかってくれてよかった。ところでヴァラ、呪文はすべて解明できたの?」
ヴァラはこくりと頷いた。
「そうか。では……」
バルはヴァラとヒューを見て静かに言った。
「呪いを解く前に、水晶の谷に行ってきてほしい」
「え?」
「水晶の谷?」
今度はバルが頷いた。
「竜への捧げものをしてきてほしいんだ。幸運ならば、恵与も受けてきてほしい」
竜? とヴァラとヒューは同時に呟いた。
バルの話によると、こういうことだ。
王家の結界内で管理されている水晶の谷には、竜が現れる。そこに行きつこうとしても、外からは誰も見つけることも立ち入ることもできない。
代々の王たちは、就任の前にそこに供物をささげに行く。
正当な王であれば供物を受け取ってはくれるが、お礼として恵与を受けることはまだ誰も成功していない。
ヴァラは首を横に振る。
「歴代の王が誰も成功していないのに、私が受けられるわけないわ。まして、王にならないものがそこへ行ってもいいの?」
「いや。恵与を受けられなくてもいいんだ。ヴァラ、キミは王家にとって稀有な存在なんだよ。二百年前、キミの先祖は竜を召喚して国を救った。キミはその血を引く。王家の血もね。ただ、試してきてほしいだけなんだよ」
バルは穏やかに言った。ヒューは首をひねる。
「でも、今城を出るのは危険じゃないのか?」
ヒューの疑問にバルはふふ、と笑う。
「安全さ。なぁに、城を抜け出しても誰にもわからないよ。いくらクラム侯がキミたちを尾行しようと、ぜったに彼の思い通りに名ならないよ。もっとも、尾行なんてフランツたちが妨害しているからできないと思うけれど。危険がないことは私が保証しよう。今夜は満月だ。今日の日没前に供物をささげ、明日の朝、恵与が受けられたかどうか確かめてから戻ってきてくれるかい?」
城の地下三階の、貯水槽の石壁の一部の隠し扉を押し開ける。さらに続く細い通路をしばらく進むと、大きな金属の古い扉が現れた。
一頭の大きな羊を連れて、フード付きの暗い色のマントを羽織ったヒューとヴァラは、その扉を見上げている。
ヒューの身長の二倍近くありそうな高さの大きな扉だ。両開きの重厚なそれには大きな南京錠がかかっている。
ヒューはヴァラの手に羊のロープを渡し、カギ束の中の一つをカギ穴に差し込んで回転させた。カチリ。音がする。彼は全身の力を籠め、右足に重心をのせて踏ん張り扉を押し開けた。
両側にそびえる黒い岩肌はヴァラの住む塔よりも高くそびえたっている。迫りくる上部の隙間からは日の光が差し込んでいる。足元は緩やかに下る黒い岩の坂道。二人は絶句する。
ぎぎぎ……
全身の力を込めてヒューが押し開いた扉は、二人が中に足を踏み入れると自動に閉まっていった。
「足元に気を付けて」
ヒューは羊の綱をもらい受け、ヴァラと手をつないだ。道幅はあまり広くはないが、岩場なので歩きづらい。
しばらく緩やかに道なりに下る。すると小一時間もしないうちに野原まで降りてきた。
一面に白い小さな花々が咲き乱れた野原。二人は息をのむ。黒い岩肌のあちこちでキラキラと光るものが見える。そっと壁面に近づいて光っているところに指先で触れてみると、ひんやりと冷たかった。
「水晶……」
ヴァラは何度か指先で撫でて確かめる。高い岩は彼方まで続いている。谷底平野には野原が広がり、中心を二馬身ほどの幅の川が流れている。
向かって川の左手に、大きな黒い一枚岩がある。それはバルが言っていた、竜が舞い降りるための岩なのだろう。そして川の右側には、岸壁に沿って一軒の小さな庵が立っている。
高床式で、バルコニーがついている。それが歴代王がここを訪れた際に利用する一夜の宿泊所なのだろう。そこに行くには川の中から突き出ている五つの飛び石の上を歩けばよい。
「城の地下からこんなところに続いているなんて……」
「歴代の王のみが知る場所なのに、いくら次代の王が許可したとはいえ、いいのかな?」
「現王の許可ももらっているみたいよ」
「本当に……竜はいると思う?」
「明日の朝にはわかるかもね」
「とりあえず、供物に餌をあげようか」
ヒューは羊のひもを引いて一枚岩のふもとの地面から出ている太い鉄の輪に括り付けた。自分の運命を知らない羊は、嬉しげに草を食み始める。
一枚岩の下に、供物の羊をつないでおく。
そして歴代の王は、庵で一晩を過ごし竜を待つ。翌朝、そこに何らかの恵与が残されていることを期待するが、二百年前に魔術師をだまして命を奪った王ののち、誰一人として受けることができていなかった。
供物はなくなることもあったが、残されることもあった。
どんな供物なら喜ばれるか?
牛、ヤギ、豚、羊、はてはうら若き乙女までもが供物に選ばれた。
しかし、人間は好まれなかったようだ。結局無難に羊やヤギが定番となった。朝見るとなくなっている確率が高かったのがその二者だったのだ。
「父上の時は、何も受け取れなかったらしい。たぶん私の時も何もないだろう。だからこその実験なんだよ」とバルはいたずらっ子のように笑っていた。
二百年前に竜を召喚して敵を壊滅させた魔術師の血を引くヴァラなら、あるいは恵与を受けられるかもしれないと兄は考えているようだ。
「来るはずがないわ」
ヴァラは苦笑する。
高床式のバルコニーから一枚岩を見つめながらヴァラは呟いた。
「ここで一晩中見張っていてもいいけど、もしも竜に見つかったら、食われるかな?」
真剣に悩むヒューにヴァラはあきれる。
「来ることが前提なの? この庵にはなにか魔術がかけられていて、強力な結界が張ってあるみたいだから、ここにいれば安全なのかもね」
羊はおいしそうに草を食み続けている。今回、ふわふわ雪は連れてこなかった。竜がその気配に警戒して来なかったり、来たとしても好奇心旺盛なふわふわ雪が竜の前に飛び出して行って、食われたりすることを避けるためだ。
「中も特別かな?」
ヒューはカギ束からまた別のカギを選びドアに差し込む。そして二人は感嘆する。
「ばばの森の中の庵とは大違いね……」
木目の美しい、木の板を張り合わせた壁と床。
暖炉があり、大木から作られた一枚板のテーブル、そして二脚の切り株のようなスツール。左奥にはポンプ式の井戸と流し台、さらにその奥には仕切り布を吊るしたバスタブ。
その奥の扉はトイレだろうか。右奥半分は簡素だが天蓋付きの高く広い寝台があり、毛皮が敷きつめられている。
最後にここが使われたのは父王が即位したときなので二十五年以上前になるだろうが、すべてが新品に見え、塵一つ落ちていない。
「中も経年劣化防止の魔法がかけられているのね。ということは……」
手ぶらで行っても大丈夫だよ、とバルは言っていた。ヴァラはスツールに座り言ってみた。
「夕食を二人分用意して」
「えっ?」
ヒューは驚愕して目を見開いた。一瞬きのうちに、テーブルいっぱいに所狭しと料理が並んだ。ヴァラは口の両端を上げて視線でヒューに席に着くように促す。ヒューは向かいに座る。
「さすが、王が滞在するところだ」
「とりあえずコツがわかったわ。さあ、いただきましょう。ただ待つだけでは心もとないから、食べ終わったらちょっと仕掛けをするわ」
「仕掛け?」
「そう。どうしても竜がここに来たくなるようにするの」