いねむり姫 ~魔女姫と呪われた若君~
5
何か……地中から響くような。
聞いたこともない獣の咆哮が聞こえたような気がした。
ごく短い、深い眠りの中からヴァラはゆっくりと意識を浮上させた。
右半身を下にして寝ていた背中にはぬくもりを感じる。彼女のうなじにはヒューの額がくっついている。
細い腰のくぼみに置かれた左腕は、軽く折り曲げられ無造作に毛皮の褥に投げ出されている。
ヴァラは唇の端を引き上げて体を反転させると、やはり右側を下にして横向きに眠るヒューに向き合った。
肩のくぼみをそっと揺する。するとヒューがうっすらを目を開けた。
「ねえ、今なにか聞こえたでしょう?」
まだ寝ぼけたままのヒューはヴァラの額に口づけて彼女を腕の中に閉じ込めてまどろみの中に戻ってしまう。
「うん……? 何か、聞こえたかも……でも食われたらまずいから、もう少したってから……」
かすれ声の屁理屈にヴァラは笑ってしまう。寝乱れたダークブロンドの髪に指を通して優しく梳《す》く。
「竜だったら、会ってみないと。大丈夫、食われないから」
「うーん……その自信は、どこから来るの?魔女だからとか、理由にならないよ……」
ヴァラは苦笑してヒューの腕の中からするりと抜け出す。
麻の下着ドレスをかぶり、コタルディの前ボタンを留める。寝台のふちに腰掛け、また眠りの淵に沈みかけているヒューのこめかみに口づけて肩を揺する。
「早く目を覚まして! めったに会えないものに会いに行こう!」
ヒューは眉間に深い縦ジワを刻み、低いうなり声で抵抗を試みたものの、すぐに観念して寝台から這い出ることにした。
高床式の庵の扉を開けてバルコニーに出たヒューは、生まれて初めて目にする光景に驚愕して一気に目が覚めた。
黒くそびえる両岸の岩肌のはざまには、無数の小さな雲がたなびく薄紅色の空。
雲たちも濃き薄き紅色に染まり、ところどころ金色の光をふちに纏っている。
昨夜ヴァラが魔法で作り上げた月の光を取り込んだしずくを散りばめた谷底の野原は今、暁の光を閉じ込めて薄紅に光り輝いていいる。
幅のない浅い川の向こう側の大きな黒い一枚岩の上には、紅いコタルディの長い裾を引いたヴァラが、細い首をそらせて凛と佇んでいる。
そして驚くべきは、彼女に対峙する—―まるで彼女に忠誠を誓う騎士のように首を垂れる—―巨大な影。
思わず叫びそうになったが、もしも叫んでヴァラに何か危険が及ぶことになってはという不安と、向かい合う両者の様子からそうするべきではないという直感から判断して、ヒューは声を飲み込んだ。
留学先の国で一度だけ見たゾウという、ローマ帝国から持ち込まれた巨大な動物の倍以上はある。
全体的に胴体が太めの巨大なトカゲのようだが、背には大きな蝙蝠のような翼がついている。そんな生物は見たことがないが、それが竜という生き物なのだろう。
ぐるぐるぐる……と、地の底から響くような低い音が聞こえる。竜が喉を鳴らしているのだろうか。
その巨大な生物――竜を見上げるヴァラの横顔は穏やかで、恐怖などみじんも感じない。両者はじっと見つめ合っている。
「あっ!」
声は出さないはずだったのに、思わず小さく声が漏れた。
ヴァラは竜に手を差し伸べたのだ。しかしすぐにヒューは自分の杞憂に安堵する。
竜はその長い首をゆっくりと垂れる。
赤い炯眼を細め、頬のあたりにヴァラが触れることを許す。
ただ黙って見つめ合っているように見えるだけだが、両者の間には言葉以外の会話が成り立っているのかもしれない。
やがて竜はゆっくりと首を上げる。ヴァラはふわりと一枚岩の上から信じられない身軽さで、羽のように野原に降り立つ。
野原を横切ると川の中の石の上を渡り、ヒューのいるバルコニーまで戻ってきた。
彼女がバルコニーまで戻ったことを確認したかのように、竜は背についた大きな翼を羽ばたかせ始めた。
ブン—―ッ!
空気が振動する。それはバルコニーまで伝わってくる。
ヒューはものすごい強風からヴァラをかばって抱きしめた。ヴァラも飛ばされないようにとヒューの胴に腕を回してしがみつく。
ばさり、ばさり……
それは、ゆっくりと一枚岩から宙に浮きあがった。
野原中の薄紅のしずくが振動する。草の上から散らされて、竜の動きに合わせて同じようにふうわりと重力に逆らって宙に浮きあがっていゆく。まるで竜がしずくのカーテンを従えながら飛びたとうとしているかのようだ。
その美しい光景に、二人は息をのんだ。さかのぼる、薄べにの雨のよう。
寄り添って、同じものを見上げてうっとりと見惚れる。
時が止まったかのような永遠の美しさ。
ブゥゥゥゥ—―ンッ!
巨大な力が空を切った。ヒューは谷底を揺らす振動からヴァラを腕でかばう。そして自分の腕の下から上空を仰ぎ、ブルーグリーンの瞳に再び驚愕を浮かべた。
なんだ? あれは……
風に押し流される雲のような巨大な体躯が谷底の野原にサッと陰りを落とす。そしてまたたとえられないような太い咆哮が谷に響いてゆく。
ばさり、ばさり……
薄紅の雲がたなびく暁の空に、一頭の巨大な有翼の巨大な怪物がゆっくりと旋回しながら上昇し、やがて薄紅の空に溶け込むように遠ざかって行った。
「な……なん……?」
言葉を失ったまま大きな影を見送るヒューに、彼を見上げたヴァラがくすっと笑う。
「どう? あれが竜よ」
「竜……」
「恵与を受けたわ」
「えっ?」
「あそこにある」
ヴァラは一枚岩を指さす。羊の姿はない。
きて! とヴァラがヒューの手を取って歩きだした。
「ほら、これ……」
彼女が指さす黒っぽい、ごつごつといびつな形で、両手で持ち上げられる程度の大きさのそれは……
「ええっ?」
持ち上げて暁の空にヴァラがかざすそれを彼女の肩越しに見上げ、ヒューは目をみはった。
「まさか……それ」
「うん……そうね……」
ヴァラはふっと笑んだ。