いねむり姫 ~魔女姫と呪われた若君~
2
王太子の居住宮で、約束がある旨を申し出て応接間に通される。
後ろ手に扉を閉めた瞬間、力強い何かが首にがっちりと巻き付いて背中をバンバンと叩いてきた。
「おかえり、ヒュー!」
近衛騎士の濃紺の制服を着た第四王子イーゴンが飛びついてきたのだ。
やわらかな明るい茶色の髪は短く刈り込まれ、まだ細身だが武人らしくほどほどに逞しい。ヒューとは同い年だが、少年ぽさの残るやんちゃさのためか、いくぶん幼く見える。
兄の王太子が王として即位するときには、臣籍に下り兄を支えていこうと決めているらしい。
彼は身を放し、喜びに輝く無邪気なブルーグレイの瞳をヒューに向けた。
「久しぶりだな、イギー」
ヒューは第四王子を幼いころからの愛称で呼んで彼の肩をポンとたたいた。
「勝てていると思っていたのにな。お前、このニ年でずいぶん背が伸びたな」
二人はソファまで歩いて腰を下ろした。
「そうだね、成人の儀の頃はどこぞの姫君かと見まごうくらい華奢だったのに」
一人掛けソファに身を沈めていた青年がふっと笑んで言う。ダークブロンドにグリーンがかったヘイゼルの瞳。優し気な細面の甘い美貌は、国内外の若い女性たちの憧れの的だ。
第三王子にして王太子のバルデマー。弟妹達は彼を愛称のバルと呼ぶが、一つ下の幼馴染のヒューも私的な場ではそう呼んでいる。
ヒューは相変わらずの幼馴染たちに微笑む。
「かの国はどうだった? 多くを学べた?」
バルの質問にヒューは頷く。
「うん、いろいろとためになったよ。政も経済も産業も、我が国と相違する点、特に優れている点はかなり参考になったな」
「美人はたくさんいたか?」
イギーの好奇心に満ちた問いにヒューは肩をすくめる。
「そりゃあ、どこにでもいるだろう、それなりに。あ、美人といえば」
ヒューは先ほどのことを思い出した。
「そういえばバル、結婚決まった?」
「ん? なぜきくの?」
「いや、さっき庭園で、護衛もつけずにすごい美人が寝ていたのを見かけて。お妃候補かなと。でも、いくら城内でも侍女も付けずに独りきりは危なくないか?」
バルとイギーは同時にえっ、とヒューを見る。
「それって…アッシュブラウンの髪に青い瞳の?」
バルの問いにヒューは肩をすくめる。
「髪の色はそうだけど、目は閉じていたからわからないな」
「彼女、何か生き物を連れていなかったか?」
イギーが少し身を乗り出す。
「ああ、手のひらに乗るくらいの真っ白いふわふわの子犬がいたよ。実はその子犬が回廊を歩いていたらどこからともなく飛び出してきて、私を庭園に連れて行ったんだ」
ヒューは子犬を思い出して微笑んだ。バルとイギーはちょっと驚いたように顔を見合わせる。
「犬か。そうか。しかも、小さいやつだったか……」
イギーは独り言を言いながら考え込む。バルはくすりと笑った。
「彼女は、城内ならばどこにいても独りでも大丈夫だよ」
「どういうこと?」
「それは…彼女が私たちの二番目の妹だからかな」
「え? あ、まさか。あれは第七王女か」
「うん。今夜、彼女の誕生祝いの夕食会があるんだ。キミも来て?」
幼いころからバルの口調は柔らかいようで絶対的だ。イギーも兄の言葉に頷く。
「来いよ。このまま帰らずに残っていろ」
笑顔のバルと神妙な表情のイギーとを交互に見て、ヒューは頭上に疑問符を浮かべた。
夢の中でヴァラは長い呪文を唱え続けている。
いつからだろうか? どれくらいだろうか?
まったくわからないけれど、気が遠くなるくらい長い間かもしれない。
ああ、これ、既視感。この場面は前にも見たことがある。
ゆうるりと意識が浮上を始める。
閉じられた瞼の下で眼球が素早く動く。そうして、うっすらと目が覚める。
真冬の凍りついた湖のような深い濃い青い瞳がはっと見開かれる。彼女はおもむろに、傍らに置いておいた茶色い革表紙の小さな手帳に急いでペンを走らせる。
夢の内容を覚えている限り一気にすべて書き取る。忘れないうちに、早く、早く。
「ヴァラ!」
バラの垣根の向こう側から一人の少女と一人の少年がやってくる。二人は四阿の中に入ってきて、ヴァラの両側にそれぞれ腰かけた。
「こんなところにいたのね」
少女が春の海のような明るい青い瞳をちょっと見開いて言った。亜麻色の髪はきれいにハーフアップにして瞳と同じ空色のドレスを着ている、六ヶ月先に生まれた第六王女のハイデ。ヴァラの異母姉である。
「ねえヴァラ。さっき三の兄上の侍従にきいたんだけどさ……」
反対隣りから身を乗り出して少年がいたずらっ子のように笑む。幾分グレーがかった青い瞳、日光を集めたようなハニーブロンドのまだあどけなさの残る、少女とでもいえそうな線の細い少年は四ヶ月だけ年下の第五王子にしてヴァラの異母弟のイェルだ。
三人は異腹ながら同い年で、彼らは幼いころからよく一緒にいることが多い。
「三の兄上と四の兄上が、フランツともう一人、幼馴染をヴァラのお祝いの夕食会に連れてくるらしいよ」
「フランツはともかく…もう一人はだれ?」
「私はフランツがくればいいわ!」
ヴァラの隣で足をぶらぶらさせながらハイデがうっとりとつぶやく。イェルはため息をつく。
「相手にされていないくせに」
「お黙りなさい。気合い入れておしゃれしなきゃ」
「わかってるだろうけれど、今夜はヴァラが主役だからね!」
「わかってるわ。でもヴァラ、フランツはダメよ! ところでイェル、そのもう一人の幼馴染の情報は?」
「なんでも、北家の嫡男でつい先日、ニ年ぶりに留学先から帰国したばかりなんだって」
北家とは「北の侯爵シュタインベルク家」の略称である。
三人とも兄たちの交友関係はよく知らなかった。
彼らが知るのは南家、つまり「南の侯爵ヴェルフェン家」の次男で今は騎士として王太子の近衛騎士団団長を務めている二十三歳のフランツくらいである。彼は生きていれば今年で二十二歳になっていたはずの亡き第三王女の生まれた時からの婚約者だった。
第六王女のハイデは六歳の時からずっとフランツに片思いをしていた。
「いくらハイデがダメだと言っても、兄上がたはフランツかその北家の幼馴染をヴァラの伴侶に考えてるんじゃないの? ハイデだって今、黒い森の公国への輿入れの話が進行中らしいし」
「イェルの意地悪!」
ぷい、とハイデは頬を膨らませてそっぽを向いた。
ヴァラは精神的に少々幼い異母姉の小さな肩を撫でてまあまあ、と落ち着かせる。
「兄上のただの気まぐれなのかもしれないでしょう? さぁ、迎えに来てくれたなら行って準備しよう」
ヴァラは立ち上がり、両手をそれぞれ姉と弟に差し出して微笑んだ。