いねむり姫 ~魔女姫と呪われた若君~
誘拐未遂と守護の剣
1
北の塔は城で働く者たちにとって、恐れ、忌み、避けるべき場所である。
妖艶な魔女から生まれた第七王女が居住していることは誰でも知っている。
彼女は侍女も召使も小間使いも置かず、すべて「目に見えない者たち」によって世話をされている。
そこに近づくのは異母兄弟たちのみで、彼らを呼びに行くべきその使用人たちさえも近づくことを拒否する。そこに行けば呪いをかけられるとか魔術の生贄にされるとかいううわさを、誰もが本気で信じ込んでいた。
朝の勉強を終えたハイデとイェルが、バスケットをもって北の塔のヴァラを訪ねてくる。
三人分のお茶セットが入れられている。
塔の上のヴァラの部屋まで登って行きバスケットをテーブルに置くと、「目に見えない者たち」がそれらをいつの間にかテーブルにセットしてくれる。ハイデやイェルにとっては幼いころから見慣れていることなので、格別何の驚きも感じたことはない。
「それで結局、兄上たちは『アイリスの館』に行ったのでしょう?」
テーブルに着いたハイデがお茶をすすって唇を尖らせた。
「そのようね。そこでヒューの歓迎会をするとバルは言っていたわ」
「私は誘われなかった。私だって弟なのに」
反対側でイェルが唇を尖らせた。同じ表情をすると、ハイデとイェルは異母姉弟ながらよく似ている。
「イェルは誘われても娼館には行きたくないのでしょう?」
ヴァラは苦笑した。ハイデがテーブルをタテこぶしでぽんと叩く。
「許せない、兄上ったら。行くならフランツは連れて行かないでほしいわ」
「彼はバルの護衛だから、バルが行くところには行くでしょうよ……」
「そうそう。ハイデには怒る権利はないよ。婚約者でも恋人でもないんだから」
「お黙り、イェル!」
ハイデは閉じた扇でイェルの腕をびしっと打った。
「痛ぁぁぁっ!」
イェルが大げさに身をよじる。ヴァラはため息をつく。
なぜバルが娼館でなくともお忍びの際にはこの二人には秘密にするのか。ヴァラにもよくわかる。
「バルたちが美女をめでることがあってもいいじゃない? 呪いを恐れて妃も持てないし。フランツだってどこに行こうと彼の自由だわ。私だって、男だったら一緒について行ってみたい」
「やだ、ヴァラったら。乙女とは思えないわ。そういうところ、イギーそっくり!」
ハイデが眉を顰める。
「私は男でもついて行きたくはないな。迫られたら怖いから」
イェルがぶるぶると首を横に振る。ヴァラは肩をすくめて答える。
「イェルには楽しめなくても、バルたちには楽しいところなのでしょう」
「ふん、それよりもさ、私が気になったのは兄上たちのあのあとの行き先じゃなくて、三の兄上が北家の幼馴染に命じたことだよ」
「あ、そうよね。自分の代わりにヴァラのそばにおいて、彼に解呪の協力をさせるってやつね。兄上もそろそろヴァラに解呪させて王太子妃を娶る気になってきたのかな?」
「それはさぁ、つまり、あれだよね。三の兄上はヴァラを一人前にして、解呪させたいって」
「その相手がフランツでなければいいわ。でも兄上は何をお考えなの? 北家の彼は『呪いの若君』で、現在は六番目の婚約者がいるのにヴァラに近づけるなんて」
「でもさ、彼、悪くないよね。家柄も見た目も中身も優秀だって評判だし、実際すごく容姿端麗だし。唯一の欠点は、婚約者がいて呪われているっていうこと」
「その呪いも解いてあげろって、バル兄上はあなたに言ったのでしょう?」
ヴァラは肩をすくめる。
「いずれにしても、こちらの呪いもあちらの呪いも、半人前のままじゃ無理ね」
うーん、とハイデとイェルが頭を傾ける。
りんりんりん、と部屋の扉の上に取り付けた小さなベルが鳴らされる。塔の下の入り口のひもを誰かが引いたのだ。ハイデがバルコニーから下をのぞき込むと、困り顔の彼女の侍女が見上げていた。
「王女殿下ぁっ! どうかお戻りください。マナーの先生が先ほどからお部屋でお待ちです」
ハイデは深いため息をつく。ヴァラは苦笑してハイデの腕に触れる。
「行ってあげて。イェルもお勉強に戻って。私はちょっと眠らないといけないと思うし」
二人はわかった、としぶしぶ塔を降りて行った。
ふわぁ、小さなあくびをして、ヴァラは長椅子の上でうつらうつらと本日の「仕事」を始めた。
築三百年はくだらない石造りの城の本館の大広間を横切って歩いていたヒューは、目の前からこちらへやってくる人影を見て、声に出さずに「ついてない」とつぶやいた。
でっぷりと肥えた巨体の、腹がはちきれんばかりの中年の男。すれ違う少し前に通路を譲って挨拶をする。
その人物は自分に会釈した若者が誰なのか気づいて、その態度に気をよくして機嫌をよくしたらしい。
不遜で横柄な笑みを浮かべ、品定めするようにヒューを頭のてっぺんからつま先まで無遠慮に見た。
「北家のマイヤー卿。留学から戻られたのだな」
「はい。ご無沙汰しておりました、クラム侯」
ヒューはわざとらしいくらい丁寧に会釈した。
横柄な中年男、クラム侯はうむ、と頷き、ヒューの帯刀している両手兼用長剣に視線を落として眉根を寄せた。
「マイヤー卿よ、王太子より常時の帯剣を許されたらしいが、それはまた、ずいぶんと大ぶりな剣だな」
「はい。祖父が私の誕生時に守り刀としたものです。王太子より、これを帯剣するよう拝命仕りました」
「ふん。卿のような細腕で、果たしてそのような大仰な剣が使いこなせるのであろうか」
明らかに小ばかにした物言いに、ヒューはあくまで平身低頭の姿勢を崩さずに冷静に笑顔で答える。
「そうですね……実戦の機会はなるべくないことを願っております」
「なんでも、第七王女殿下をお守りするように仰せつかったとか」
どこから聞いたか、昨夜の情報をもう知っているようだ。不気味だと思いつつも愛想笑いを浮かべる無害な様子のヒューを前に、侯爵はぶつぶつと独り言ちする。
「まったく、あのような恐ろしいけだものをそばに置く王女を、騎士やほかの武官ならばともかくも、剣もろくに振るえなそうな文官候補を護衛にするとは、王太子も何をお考えなのであろうか」
「はい?」
よく聞こえなかったふりをして、ヒューは笑顔で首を傾げる。
はて、「恐ろしいけだもの」とは、あの小さな毛玉のような子犬のことだろうか?
「剣もろくにうんぬんな文官候補」とは、私のことだろうか?
しかし、ヒューの聞き返しには答えることなく、クラム侯はそのままぶつぶつと独り言をつぶやきながら去って行った。
ヒューのことはさほど眼中にはないのだろう。彼のもっぱらの関心ごとは、十七歳になる自分の娘を王太子妃にすることである。
ヒューはほっと息をついた。
先々代の王のひ孫にあたる西家のクラム侯爵、ゲオルグ・メッテルニヒ。十人中十人の貴族たちは、彼のことを貪欲な野心家というだろう。
西家はヒューの家、北家と勢力を二分する侯爵家である。現在ヒューの父シュタインベルク侯爵には王太子妃に立てるべき娘がいないので、クラム候は今がまたとない絶好の機会だと思っているのだろう。
でっぷりとした中年体形で、頭頂が薄めのため赤毛をやや伸ばし気味にしてふわりとかぶせている。皮肉屋で吝嗇家で、狡猾で傲慢なため、信頼も人望もその頭頂以上に薄い。
それにしても、とヒューはくすっと苦笑して歩き始める。
「あいかわらず本当に失礼な人だ」