期末テストで一番になれなかったら死ぬ
陰の濃い廊下を歩く。
窓の外が白く眩しい。廊下の床はひんやり冷たいけれど、今このときだけは、外の猛暑に身を浸していたいと思う。
何しろ、手には今日の分の課題プリント、肩からかけた鞄には置きっぱなしだった教科書の山、向かう先は特別棟、図書室横の空き教室。心寒々しいにも程がある。
明日から夏休みだというのに、私はこれから毎日登校し、空き教室で課題のプリントを片付けないといけないのだ。
渡り廊下に出ると、日射しと熱気がのしかかってくる。
……やっぱり心寒くても屋内がいいね。
そういえばそろそろ、と思い出し、スマホを取り出す。
危ない。スタミナが溢れそうになっていた。ちゃんと消費しなければ。
廊下の壁に背をつけて、ライブを始める。
私とは違い追試に合格したレネだったが、またも苦しい状況に追い込まれている。今度は実家の両親から『帰ってこい』と言いつけられているのだ。アイドル活動を続けるためには、次のオーディションで新ユニットに選抜され、両親を納得させるしかない。
と、私のスマホの中のレネはそんな抜き差しならない状況に陥っている。
でも私は知っている。レネがこの先報われると知っている。
オーディションでハイスコアをとれば、両親はあっさりと納得し、レネの夢を認めてくれる。
そういうシナリオのイベントなのだ。ネットのネタバレ記事で読んだから知っている。
ネタバレを嫌がる人の気持ちが、私には理解できない。救いのないシナリオでは頑張る意味がない。事前に結末を知っておかなければ、時間と労力を注ぎ込むなどできる訳がない。
オーディションに向けたレッスンでハイスコアを記録し、イベントを一歩進める。
レネは『これならいけるかも……!』と自分の出来に喜んでいる。
ええ、あなたはできる子よ。私には分かっている。
スタミナを消費し満足したところで空き教室へと向かう。
図書室の隣、表札に何も書かれていないドア。
と、そこまで来てようやく気づいた。鍵を持っていない。すっかり忘れていた。
空き教室の鍵は職員室で管理しているはずだ。生徒が自習で使うこともできるはずだが、こんな一学期最後の日にわざわざ自習をする物好きなどいる訳がない。
ここからまた戻るのか。何かの間違いで開いてたりしないかな。ないよね。
でも一応……と引いてみたら、ドアは何の手応えもなく開いてしまった。
がらがらがら、と派手な音を立てるドアにまず驚き、中に人がいて目が合ったことに驚き、そして何よりいたのが鹿島くんだったなので、私は「え」と呻く以外に声を失った。
「げ」
そんな私に投げつけられたのは、それはもう大きな『げ』だった。
こちらを向いて大きく口を開けていた鹿島くんは、我に返ると唇をぎゅうと結び、ふんっと視線を机に向けた。
今更立ち去るわけにもいかず、「お邪魔しまーす……」と小声で告げながらドアを閉める。
そしていつまでも出入り口に突っ立っている訳にもいかないので、彼からは離れた教室後方の席に向かう。
私が椅子を引き出しても、鹿島くんは顔を上げようともしない。机の上には、ノートと教科書が広げられ、その脇には分厚い辞書が置かれている。
視線を落とす。机にも椅子にもうっすらと白い埃が積もっている。ハンカチで軽くはたき、腰を下ろす。
「……」
「……」
かつかつと、鹿島くんがシャープペンを走らせる音だけが響く。
何故鹿島くんはこの部屋にいるのだろう。
自習とか?
確かに、空き教室ならば静かで集中はできるかもしれないけれど、そもそも鹿島くんは生徒ごった煮の教室でも一人で勉強できるような人だ。わざわざ鍵を借りてまでこの環境を求めはしないだろう。
じゃあ追追試に向けた補習とか?
いや、追試で赤点をとったのは私だけのはずだ。
「……ああ」
分かった。鹿島くんはやっぱり補習だ。でも私とは違う。
確かに青木先生は言った。追試の赤点は私だけであると。だけど補習の対象が私一人であるとは一言も言っていない。補習を受けるのは赤点をとった生徒だけではない。出席日数の足りない生徒も対象だ。
私の知る限り、鹿島くんは成績優秀で真面目で、授業をサボるような人ではない。
でも体が弱い。体調をよく崩す。きっと本人の意志とは無関係に、欠席の数が積み重なったんだろう。
「……そういうことね」
「何がそういうことなんだ?」
思わず顔を上げる。鹿島くんは背中を向けたままでいる。
まさか彼の方から声をかけてくるなんて。
「えっと……」
出席日数が足りなかったんだよね、と言おうとしたところで思い留まる。
普通に話したのでは面白くない。今の空気のままでは気が詰まる。
「鹿島くんも補習なんだなって。中間は一位だったのに、派手に成績落ちたなあって」
「僕は補習じゃない!」
と、鹿島くんは椅子を派手に鳴らして立ち上がった。
「補習だけど補習じゃなくて、出席日数が足りなかったんだ! その、体調がちょっとよくなくて」
「そうだね。分かってるよ、分かってる」
激昂する鹿島くんを敢えて更に煽る。
「期末テストだって僕はちゃんと一位だったんだ! 廊下の掲示見ただろう!」
「うんうん、分かってるよ。私は順位表見てないから知らないけど」
もちろん見ている知っている。鹿島くんは期末も一位だったのは確かだ。安曇と二人、掲示板を見た記憶は鮮明に残っている。
「その言い草、絶対信じてないだろう!」
「ううん信じてるよ。アイ、ビリーブ、ユー」
とうとう鹿島くんは机を離れ、教室の入り口に向かって歩きだした。
「そこまで言うなら見に行こう!」
そうこなくっちゃ!
しかし鹿島くん、結構ちょろいね。
「じゃあ行きましょう」
と立ち上がった私を見て、鹿島くんが教室のドアに手をかけようとしたそのとき。
まだ彼が触れていないドアが、外から開けられた。
「怜央ー、鶴ちゃんにのせられちゃダメだよ」
立っていたのは安曇だった。
「鶴ちゃん、怜央が期末一位だったって知ってるでしょ。だって私と一緒に掲示見たもんね」
安曇の言葉に、鹿島くんが振り返る。その顔には驚きが三割で憤怒が七割といった配合の形相が浮かんでいる。
目を逸らし、「そうだっけ?」と首を傾げてみる。
鹿島くんの憤怒が九割になった。
「で、お前は何しに来たんだよ、ひまり」
鹿島くんが安曇の名を呼ぶ。ひまり。
その響きは妙に耳に新しく……名状し難い不安定な気持ちが湧いてくる。
「何しにって見に来たに決まってんじゃん。だって怜央と鶴ちゃんだよ? 相性絶対最悪でしょ!」
そう言って安曇は屈託なく笑った。少しは屈託した方がいいと思う。
「お前なあ……。まあ、実際よくはないが」
と、鹿島くんは呆れ顔で悲しいことを言った。
悲しいけど事実だ。私と鹿島くんは相性がよくない。
というか私が一方的に嫌われている。何もした記憶はないのに。何ならつい最近まで鹿島くんのことを知らなかったというのに。
「んー」
と、私と鹿島くんの顔を交互に見る安曇。
それから「うん!」と頷いた安曇は、鹿島くんの耳許に口を寄せ、何事かを呟いた。
鹿島くんの顔にはまず驚きが、次に怒りが、そして躊躇いが浮かんだ。躊躇いというか戸惑いというか、とにかく鹿島くんは困っていた。
そんな鹿島くんの代わりとばかりに、安曇はぐいっと私の前に踏み出してきた。
「怜央が勉強見てくれるって! よかったね、鶴ちゃん!」
思わず鹿島くんの顔を見る。視線が合う。彼が目を逸らすし、それから告げた。
「……やるからには、ちゃんとやる」
そして改めて鹿島くんは私を見た。
「覚悟しとけよ」
彼の口許には、微かに笑みが浮かんでいた。
窓の外が白く眩しい。廊下の床はひんやり冷たいけれど、今このときだけは、外の猛暑に身を浸していたいと思う。
何しろ、手には今日の分の課題プリント、肩からかけた鞄には置きっぱなしだった教科書の山、向かう先は特別棟、図書室横の空き教室。心寒々しいにも程がある。
明日から夏休みだというのに、私はこれから毎日登校し、空き教室で課題のプリントを片付けないといけないのだ。
渡り廊下に出ると、日射しと熱気がのしかかってくる。
……やっぱり心寒くても屋内がいいね。
そういえばそろそろ、と思い出し、スマホを取り出す。
危ない。スタミナが溢れそうになっていた。ちゃんと消費しなければ。
廊下の壁に背をつけて、ライブを始める。
私とは違い追試に合格したレネだったが、またも苦しい状況に追い込まれている。今度は実家の両親から『帰ってこい』と言いつけられているのだ。アイドル活動を続けるためには、次のオーディションで新ユニットに選抜され、両親を納得させるしかない。
と、私のスマホの中のレネはそんな抜き差しならない状況に陥っている。
でも私は知っている。レネがこの先報われると知っている。
オーディションでハイスコアをとれば、両親はあっさりと納得し、レネの夢を認めてくれる。
そういうシナリオのイベントなのだ。ネットのネタバレ記事で読んだから知っている。
ネタバレを嫌がる人の気持ちが、私には理解できない。救いのないシナリオでは頑張る意味がない。事前に結末を知っておかなければ、時間と労力を注ぎ込むなどできる訳がない。
オーディションに向けたレッスンでハイスコアを記録し、イベントを一歩進める。
レネは『これならいけるかも……!』と自分の出来に喜んでいる。
ええ、あなたはできる子よ。私には分かっている。
スタミナを消費し満足したところで空き教室へと向かう。
図書室の隣、表札に何も書かれていないドア。
と、そこまで来てようやく気づいた。鍵を持っていない。すっかり忘れていた。
空き教室の鍵は職員室で管理しているはずだ。生徒が自習で使うこともできるはずだが、こんな一学期最後の日にわざわざ自習をする物好きなどいる訳がない。
ここからまた戻るのか。何かの間違いで開いてたりしないかな。ないよね。
でも一応……と引いてみたら、ドアは何の手応えもなく開いてしまった。
がらがらがら、と派手な音を立てるドアにまず驚き、中に人がいて目が合ったことに驚き、そして何よりいたのが鹿島くんだったなので、私は「え」と呻く以外に声を失った。
「げ」
そんな私に投げつけられたのは、それはもう大きな『げ』だった。
こちらを向いて大きく口を開けていた鹿島くんは、我に返ると唇をぎゅうと結び、ふんっと視線を机に向けた。
今更立ち去るわけにもいかず、「お邪魔しまーす……」と小声で告げながらドアを閉める。
そしていつまでも出入り口に突っ立っている訳にもいかないので、彼からは離れた教室後方の席に向かう。
私が椅子を引き出しても、鹿島くんは顔を上げようともしない。机の上には、ノートと教科書が広げられ、その脇には分厚い辞書が置かれている。
視線を落とす。机にも椅子にもうっすらと白い埃が積もっている。ハンカチで軽くはたき、腰を下ろす。
「……」
「……」
かつかつと、鹿島くんがシャープペンを走らせる音だけが響く。
何故鹿島くんはこの部屋にいるのだろう。
自習とか?
確かに、空き教室ならば静かで集中はできるかもしれないけれど、そもそも鹿島くんは生徒ごった煮の教室でも一人で勉強できるような人だ。わざわざ鍵を借りてまでこの環境を求めはしないだろう。
じゃあ追追試に向けた補習とか?
いや、追試で赤点をとったのは私だけのはずだ。
「……ああ」
分かった。鹿島くんはやっぱり補習だ。でも私とは違う。
確かに青木先生は言った。追試の赤点は私だけであると。だけど補習の対象が私一人であるとは一言も言っていない。補習を受けるのは赤点をとった生徒だけではない。出席日数の足りない生徒も対象だ。
私の知る限り、鹿島くんは成績優秀で真面目で、授業をサボるような人ではない。
でも体が弱い。体調をよく崩す。きっと本人の意志とは無関係に、欠席の数が積み重なったんだろう。
「……そういうことね」
「何がそういうことなんだ?」
思わず顔を上げる。鹿島くんは背中を向けたままでいる。
まさか彼の方から声をかけてくるなんて。
「えっと……」
出席日数が足りなかったんだよね、と言おうとしたところで思い留まる。
普通に話したのでは面白くない。今の空気のままでは気が詰まる。
「鹿島くんも補習なんだなって。中間は一位だったのに、派手に成績落ちたなあって」
「僕は補習じゃない!」
と、鹿島くんは椅子を派手に鳴らして立ち上がった。
「補習だけど補習じゃなくて、出席日数が足りなかったんだ! その、体調がちょっとよくなくて」
「そうだね。分かってるよ、分かってる」
激昂する鹿島くんを敢えて更に煽る。
「期末テストだって僕はちゃんと一位だったんだ! 廊下の掲示見ただろう!」
「うんうん、分かってるよ。私は順位表見てないから知らないけど」
もちろん見ている知っている。鹿島くんは期末も一位だったのは確かだ。安曇と二人、掲示板を見た記憶は鮮明に残っている。
「その言い草、絶対信じてないだろう!」
「ううん信じてるよ。アイ、ビリーブ、ユー」
とうとう鹿島くんは机を離れ、教室の入り口に向かって歩きだした。
「そこまで言うなら見に行こう!」
そうこなくっちゃ!
しかし鹿島くん、結構ちょろいね。
「じゃあ行きましょう」
と立ち上がった私を見て、鹿島くんが教室のドアに手をかけようとしたそのとき。
まだ彼が触れていないドアが、外から開けられた。
「怜央ー、鶴ちゃんにのせられちゃダメだよ」
立っていたのは安曇だった。
「鶴ちゃん、怜央が期末一位だったって知ってるでしょ。だって私と一緒に掲示見たもんね」
安曇の言葉に、鹿島くんが振り返る。その顔には驚きが三割で憤怒が七割といった配合の形相が浮かんでいる。
目を逸らし、「そうだっけ?」と首を傾げてみる。
鹿島くんの憤怒が九割になった。
「で、お前は何しに来たんだよ、ひまり」
鹿島くんが安曇の名を呼ぶ。ひまり。
その響きは妙に耳に新しく……名状し難い不安定な気持ちが湧いてくる。
「何しにって見に来たに決まってんじゃん。だって怜央と鶴ちゃんだよ? 相性絶対最悪でしょ!」
そう言って安曇は屈託なく笑った。少しは屈託した方がいいと思う。
「お前なあ……。まあ、実際よくはないが」
と、鹿島くんは呆れ顔で悲しいことを言った。
悲しいけど事実だ。私と鹿島くんは相性がよくない。
というか私が一方的に嫌われている。何もした記憶はないのに。何ならつい最近まで鹿島くんのことを知らなかったというのに。
「んー」
と、私と鹿島くんの顔を交互に見る安曇。
それから「うん!」と頷いた安曇は、鹿島くんの耳許に口を寄せ、何事かを呟いた。
鹿島くんの顔にはまず驚きが、次に怒りが、そして躊躇いが浮かんだ。躊躇いというか戸惑いというか、とにかく鹿島くんは困っていた。
そんな鹿島くんの代わりとばかりに、安曇はぐいっと私の前に踏み出してきた。
「怜央が勉強見てくれるって! よかったね、鶴ちゃん!」
思わず鹿島くんの顔を見る。視線が合う。彼が目を逸らすし、それから告げた。
「……やるからには、ちゃんとやる」
そして改めて鹿島くんは私を見た。
「覚悟しとけよ」
彼の口許には、微かに笑みが浮かんでいた。