期末テストで一番になれなかったら死ぬ
第二章 勉強なんてしてどうするの
 ピピッピピッ。

 目覚ましを止める。今は……六時半。

 まだ重たい体に鞭打って起き上がり、「んー」と唸りながらカーテンを開ける。

 日射しが眩しい。今日もいい天気。外は暑そうだ。

 手早くベッドを整え、クーラーを切る。廊下に出ると、むわっと湿気混じりの熱気。リビングのクーラーをつけてから洗面所へ。顔を洗い、化粧水と乳液をつける。どちらも季帆さんから勧められたものだ。

 歯ブラシに歯磨き粉を出す。ミントきつめのお気に入りだ。一度目の歯磨きをしていると、ぬっと季帆さんが鏡の中にに現れた。

「……おあよ、う」

 朝の季帆さんはいつもこうだ。ベッドに魂を置いたまま体だけで起きてくる。

「おはよ、季帆さん。今日早いね。急いでご飯用意するから」

 急いで歯ブラシをすすぎ、二度目の歯磨きを始める。

「……ふふ」

 と、季帆さんがタオルに顔を埋めながら笑う。

「どうしたの?」

「ううん、大したことじゃないんだけど……行洋さんも朝は二度磨きしてたなって」

 行洋さんとは、お父さんのことだ。確かにお父さんは毎朝、二回歯磨きをしていた。一回目は歯磨き粉をつけて。二回目は水だけで。私もそうするのが当り前だと思っていた。小学校の林間学校でお泊りしたとき、クラスメイトが一回しか歯磨きしないのを見て驚いたのを覚えている。

 季帆さんは本当にお父さんの恋人だったんだ。今更ながらに実感した。二人は何度朝を共にしたんだろう。きっと数え切れないほどに多かった。でも他の夫婦よりは少なかった。

 やっぱり季帆さんのことを『お母さん』とは呼べない。きっとそれは呪縛になる。季帆さんには、まだこれからがあるのだから。

「舞夕ちゃん?」

 季帆さんの声で我に返る。

「あ、ごめん! 朝ご飯すぐ用意するから」

「そんな焦らなくて平気だよ?」

 優しく笑い、季帆さんも二度目の歯磨きを始めた。

「……じゃあキッチン行ってるね」

 そう言い残して洗面所を出る。

 季帆さんは、辛くならないのかな。私の中にお父さんの欠片を見つけて、こんなふうに悲しくなったり、しないのかな。

 テーブルにトースト、目玉焼き、紅茶を並べる。ついでにお弁当の準備。昨日の野菜炒めとご飯を冷蔵庫から、冷凍食品の唐揚げと煮物を冷凍庫から取り出す。そして温めずに弁当箱に詰め込む。外は暑い。お昼にはちょうど解凍されている。

 スマホを片手に季帆さんが現れ、席に着くなり「いただきます」と食事を始める。そして「お行儀悪くてごめんね」と謝りながらスマホを操作する。天気や電車の運行情報を見ているらしい。少しずつ、季帆さんの顔が大人のそれになっていく。

「舞夕ちゃん、もう夏休みなんだっけ? 今日ほどこかお出かけ?」

 不意に季帆さんがそう口にした。トーストを口に運ぼうとしていた私の手が、ぴくりと止まる。

「……うん、行くのは学校だけど。図書委員の当番があって」

 咄嗟に嘘が飛び出す。図書委員なんてなったことない。補習のことは、季帆さんには告げられていない。言えないよ。ただでさえ季帆さん忙しいのに、余計なことで心配かけたくない。

「そうなんだ。委員に仲のいい友だちでもいるの? それとも好きな男の子? ひょっとして彼氏?」

 季帆さんは悪戯っ子みたいな笑みを浮かべて、スマホの向こうから私を覗いた。

「そんなんじゃないよ。どうして?」

「だって、鏡の前で楽しそうだったから」

 嘘、と思わず言いそうになった。聞いてどうする。季帆さんが嘘をつく理由なんてない。

「……授業ないのに学校行くのって、ちょっと楽しくない?」

「あー、それ分かる! いつもと違うの、特別な感じするよね!」

 季帆さんは思いっきりの笑顔でそう応えてくれた。

「あと安曇もいるから。ほら、前に話した、よく遊ぶ友だち」

「こないだ見せてくれたあれでしょ? ツイッターの、ほら、タピオカラーメン!」

「それそれ。安曇ってああいうネタ系好きなの」

 本当は授業があるし、安曇は多分登校しない。

 胸がじくじくと疼く。小さな嘘を隠すために少しだけ大きな嘘を被せて、その嘘は更に大きな嘘で覆い隠して……。最初の一つを明かすには、剥ぎ取るヴェールが重すぎる。

「今日も遊び行くなら、お小遣い足りないよね。……ごちそうさま。ちょっと待っててね」
 と、手を合わせた季帆さんが席を立つ。

「え、季帆さん!」

 慌てて後を追い、季帆さんの部屋へ向かう。案の定、季帆さんは鞄から財布を取り出していた。

「いいよ、今もらってるので十分!」

 手を遮ると、季帆さんは苦笑いを浮かべた。

「大丈夫だよ? 舞夕ちゃん贅沢とか全然しないし、」

「お父さんの遺産や保険金もあるし、でしょ? でもそれは大事にとっとかないと」

「うん、偉い」と季帆さんが頷く。「大学だって私立にするかもだしね。節約は大事。行洋さんのお金は大事にしないと」

「そうだよ。遊びになんて遣えない」

「だから、これは私から」

 そう言って財布を開こうとする季帆さん。

「だめだよ! ますますもらえないって」

「気にしないで。私だって稼いでるんだから」

「本当に困ってないから! ほら、それより季帆さん、時間!」

 季帆さんは腕時計を見下ろし、「げ」と太い声を漏らした。そして、クローゼットから夏物のジャケットと鞄を取り出し、急いで部屋を出ていく。私もその背中を追う。

「髪とお化粧は?」

「平気! 会社着いたらトイレでやっちゃうから!」

 朝ご飯食べたり、お小遣い云々で気を揉んだりしてるから……。責める言葉が口から出そうになるのを、ぐっと飲み込む。分かってる。私のためだって。

 玄関でパンプスに足を突っ込んだ後、季帆さんは「はい」と、一万円札を取り出した。

「だから、足りてるって!」

「うん、分かってる。遣わなくていいから、念のため持ってて」

 と、胸にお札を押し付けてきた季帆さんの笑みに優しさと戸惑いと焦りが見えて、私はその手を払うことができなかった。

「じゃあ行ってきます!」

 元気な声とともにドアが閉められる。

 手元に残されたお札を見下ろす。一万円。お正月だけに会う親戚のおじさんからもらうような、そんな距離感。

「……私も行かなきゃ」

 敢えて声を出し、自分に言い聞かせる。

 机の引き出しにお札を入れ、制服を着て、ローファーを履いて。

「行ってきます」

 玄関に残る季帆さんの気配にそう告げる。



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