期末テストで一番になれなかったら死ぬ
 代官山駅。ここで降りるのは初めてだった。

 白亜のビルが軒を連ねる四角四面な印象を後付で誤魔化すように、そこかしこに樹木が植えられている。生えている、といった印象は全く無い。飽くまでもそれらは植えられている。

 指定された喫茶店は、駅から少し離れた住宅街の一角にひっそりと佇んでいた。周囲の新しい建物から比べると、僅かに古びたマンションの半地下に降りる。蔦に覆われた窓ガラスからは中が見えなくて、事前に知らされていなかったら、絶対に一人では入らなかっただろう。

 厚い木のドアを引き開けると、頭上でカウベルが耳障りな音を立てた。

 お店の中には、焦げ茶色をした革張りのソファを向かい合わせにしたボックス席がいくつか。

「あら、遅かったわね」

 そのうちの一角に座っていたお母さんが、そう言って私を呼んだ。

「まだ時間になってないよ」

 お母さんの周りに漂う煙を手で払いながら、席に着く。

 八月上旬に会ってから、およそ一ヶ月が経っていた。お母さなから再び来た連絡を、私は無碍にはできなかった。

 しかし制服で来たのは失敗だった。土曜の午後だから、学校の後そのまま電車に乗ったのだけど、会う相手がお母さんだということはしっかり考えておくべきだった。この臭気、ちゃんと落ちるだろうか。月曜までに上下とも洗濯した方がよさそうだ。ヤニ臭いまま学校に来ていったら私が疑われかねない。いや、その前にまず希帆さんに気づかれないようにしないと。帰ったらすぐ洗おう。

 お母さんから『代官山に素敵なカフェがあるから行かない?』と誘いを受け取って、まず真っ先に湧いてきたのは行きたくないという強い感情だった。お母さんのことだからどうせ臭い喫茶店を選ぶに決まっている。というかお母さんに会うとそれだけで苛つくし疲れる。

 それに、まだ回答は準備できていない。『一緒に暮らさない?』という提案は、すぐに答えを返せるようなものじゃない。

 でも、希帆さんを解放するための具体的な策を、私は他に持っていない。

 今すぐ高校を辞めて働く? 家を出る? 希帆さんに出て行ってもらう? いっそマンションを売って安い賃貸にでも住む?

 どうしたって希帆さんに心配をかけずにはいられない。

 だから私は、回答を返すためではなく、保留にし続けるためここに来た。

「どう、舞夕? 代官山なんて普段来ないでしょう」

 お母さんは何故か得意げにそう言いながら煙を吐いた。

「煙いから消して」

 そう応え、手に取ったメニューで煙を払う。

「もう、もったいない。仕方ないわねえ」

 と、お母さんは『聞き分けのない子どもの我儘を聞いてあげる母親ごっこ』をしてから、煙草を灰皿に押し付けた。

 近づいてきたおばさん店員に、「アイスコーヒー」 と注文する。

「かしこまりました」

 今回は銘柄だのなんだの聞き返されることもなく、素直に注文は聞き入れられた。だというのに、お母さんが、

「他はいいの? 遠慮しなくていいのよ」

 とメニューを開いたため、店員さんはテーブルを離れられずに立ち往生するはめに陥ってしまった。

「別にいらない。あの、アイスコーヒーだけで結構ですので」

 私がメニューを閉じると、店員さんは「はあ」と、戸惑いながらも席を離れていった。

「もう、店員さん、困ってたじゃないの」と、お母さんは頬を膨らませて見せた。

「……で、今日は何の用?」

 私はその甘えた仕草を黙殺し、訊かずもがなの質問で本題を促した。

「相変わらずせっかちなんだから。で、こないだのことは考えてくれた?」

「こないだのこと?」

 素直に答えるのが癪で、何となうはぐらかす。早く本題に入って早く帰りたい。でも答えを出すには早すぎる。そんなアンビバレンツな欲求に、私は挟まれている。

「ほら、一緒に暮らそうって、」

「お待たせいたしました」

 おばさん店員のご挨拶に遮られ、お母さんは不服そうな表情を浮かべた。ざまあみろ。

 店員さんが私の前にコースターを敷き、アイスコーヒーのグラスを置く。格好はそれなりのお店だな、と思った。グラスに口をつける。……うん。鼻が曲がりそうなヤニの悪臭の中、やはり味は分からない。目の前にいる相手のせいもあるかもしれないけれど。

「……実はね、今日はゲストを呼んでるの」

 気を取り直した、というようにお母さんが切り出した。



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