期末テストで一番になれなかったら死ぬ
第七章 後悔しない選択肢を選べ
 月曜日の朝、一時間目が始まる前の教室には、いつも弛緩した空気が漂っている。週末の睡眠から目覚めきっていないような、立ち上がりのぼやけた時間。

 席に着いた安曇も、欠伸混じりに鞄から荷物を取り出している。

「ねえ」

 机に手をつくと、安曇が顔を上げた。

「今日の放課後、付き合って」

 安曇は、教室にいるときいつも薄く微笑んでいる。だからクラスメイト誰彼ともなくよく話しかけられる。

 今も、安曇はその『よそ行き』の表情を崩さなかったが、声だけは取り繕うことなく、暗い声音で小さく「は?」と呟いた。

「……何で?」

「放課後寄り道するのに理由って要る?」

「要るでしょ。友だちなら別だけど」

 人当たりのよい表情と声で教室の平和なざわめきに溶け込んだまま、安曇はそんな冷たい言葉を吐いた。

 しかし、私が今更そんな言葉に怖気づくとでも思っているのか。

「なら行きましょ。私たち、友だちだもの」

 机をぽんぽんと叩き、私は安曇の席を後にした。

 自席に戻ってから振り向くと、安曇は既にいつも通り、前の席の子と口を開けて笑い合っていた。



 十一月中旬、井の頭公園は秋に染まっていた。

 見上げれば乾いた木々の枝に、見下ろせば道の脇や池の水に、紅や黄色の葉が広がっていた。

 ついこの間まで茹だるような夏がそこにあったはずなのに、もうすぐ冬が来て、もうすぐ今年が終わる。

 勉強を再開してからは、時間の流れが早くなった。一週間はすぐだし、一日はあっと言う間だし、一時間なんてあってないようなものだ。

 井の頭高校の方から公園に入ると、立ち並ぶ木々の間を通ることになる。木々の向こうには小さな小川。神田川の最上流だ。舗装された道を歩きながら物思いに耽っていると、後ろをついて来る安曇から声がかかった。

「ねえ、どこ行くの? 寒いんだけど!」

 不機嫌を、いや、敵意を隠そうともせず、安曇は声を荒げた。

「……ねえ、安曇。鹿島くんはどうしてる?」

 別にどこへ行こうというつもりもない。今更二人でカフェもラーメンもないでしょう。ただ、歩きながら話をしようと思っただけ。

 問い掛けに込めた私の意図は伝わったようで、安曇は私の隣に並びかけながら「最近は、ずっと勉強してる」と答えた。

「お母さんも驚いてるよ。あ、お母さんって怜央のね」

 そう付け加えたとき、安曇は小さく鼻で笑った。

 『私はこんなにあの子に近い』。そう言いたいのだろう。

「……こないだね、病院行ったの。そしたら面会謝絶の札が出てて」

「あー。先週の話? あのときは検査で薬飲んでて眠ってただけだよ」

 よかった。本当に、よかった。思わず肩で息をつく。

 どうしてもそれを知りたかった。鹿島くんのことを教えてくれるのなら、マウントの一つや二つは許す。何なら感謝したっていい。口にはしないけれど。

 井の頭線の高架を潜り進むと、小さな水門に区切られた水溜りが現れる。ひょうたん池だ。

「……怜央ね、最近ちょっとはしゃいでる」

 池の方を見ながら、安曇はそう切り出した。

「期末テストは絶対受けに行くって。親も医者も賛成はしてないけど、それで元気になるなら、気持ちが元気になるなら止めない方がいいって考えてるみたい」

「そう」

 良かった。とは言えなかった。

 安曇は今、わざわざ『気持ちが元気になるなら』と言い直した。そういうことなのだろう。

 安静にしていた方がいい。とも言えなかった。

 言えるわけがない。煽ったのは私なのだから。

「鶴ちゃんのおかげだね」

「……妙に素直ね」

「別に褒めてないし、感謝してるわけでもないよ。ただの事実」

 そうこう話しているうちに、大きな池に出た。ドラマや映画に登場する井の頭池だ。

 池まで来ると、人の姿が多くなる。柵にもたれ池を見る人。スポーツウェアを着て小走りに駆ける人。犬の散歩をする人。ベンチに腰掛ける人。

 そして、私たちのように、どこからどこへともなく歩いてく人たち。

「……安曇は、勉強しないの?」

「しないよ」

 即答だった。迷いは一片もなかった。

「それが今日の本題?」

 安曇の声には、小さく笑いが混じっていた。

「安曇はそれでいいの?」

「いいんだよ。近いのが身体だけでも、私はいいの」

「鹿島くんが安曇を見なくても?」

 私の言葉に、安曇は足許の小石を蹴飛ばした。

「近すぎるものって見えないでしょ。しょうがないよ」

 池の周りを進むと、幅の広い橋に出る。七井橋だ。

 安曇と連れ立ち、橋を渡る。七井橋を渡るとそこは水生物園のある中之島だ。この小さな島にはボート乗り場があり、その先にはもう一本、対岸に渡る狛江橋がある。

 島と両方の橋には通行する人の姿も疎らにあるが、池の上にボートの影はない。休日や夜には賑わう公園も、平日夕方、しかも寒空の下では流石に閑散としていた。

「安曇ってさ、意外と友だち思いだよね」

 ボート乗り場脇の柵にもたれかかり、池を見る。

「……は?」

 安曇が隣に立つ。

「誰と誰が友だち?」

「だって私を鹿島くんの特別にしてくれた。鹿島くんの人生がノートだったら、私、間違いなく赤字で下線引かれてるよ。宿命のライバルだもの」

「変な喩え。……だったら私は最初の一ページから最後のページまで、全部に登場してるから」

 と、安曇は文句を言いながらもその喩え話に乗ってきた。

「ページの端っこに小さく書かれてるだけでいいの?」

「鶴ちゃんこそ、二、三ページ書かれてるだけで大きな顔しないでくれる?」

 すぐ側の枝から焦げ茶色の葉っぱが一枚、池の水面に落ちた。

「……安曇はそれでいいかもしれない。でも、鹿島くんはどうだろう?」

「どういうこと?」

「鹿島くんは、安曇の頑張ってる姿を見たいんじゃないかってこと」

「……怜央の何を知ってるの」

「そうね。少ししか知らないよ」

 私が鹿島くんのことを認識してから、まだ半年も経っていない。

 あの頃、公園の線路脇では青い紫陽花が咲いていた。

 今は紅葉が落ち始めている。

 たった半年。

 それでも時間は過ぎている。

「報われることなんて期末テストに命懸けるなんて言っちゃう人で、受けられるかも分からない期末テストに全身全霊を注げる人。たかが八位にしかなれなかった私の挑発に、簡単に乗っちゃう人。……このくらいしか知らないよ」

 安曇は黙って顔を背けた。

 私は知らない。

 今私が紹介した鹿島くんを、安曇が全て知っていたのかを。

「頑張ってる姿を見て自分も頑張ろうって思って、それを見て相手も頑張って。そんな関係って幸せだと思うの」

「……今の私と怜央は、幸せじゃないって?」

 安曇の問いに、肩を竦めて返す。

「自分に聞いたら?」

 策を離れ歩きだすと、安曇も柵から手を離した。

「鶴ちゃんこそさ、思ってたよりお人好しだよね」

「そう?」

 島の中央で立ち止まる。一緒に歩くのはここまでだ。私と安曇とでは、家の方角が違う。私は吉祥寺駅へと向かう七井橋へ、そして安曇は狛江橋を渡って対岸へと帰路をとる。

「……怜央を挑発するのに憎まれ役買って出るまでは分かるよ。でも何で私にまで喧嘩売るの?」

 私はバイバイ、と手を振りながら答えた。

「だって私たち、友だちだもの」



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