期末テストで一番になれなかったら死ぬ
「……ただいま」

 この時間、家には私しかいない。そうと分かっていても、挨拶をするのが習慣になってしまっている。

 吉祥寺駅から歩いて十分弱、御殿山のマンションに私は二人で住んでいる。

 キッチンのシンクに弁当箱を置き、部屋で制服をハンガーにかける。豚骨の臭いが気になったので、スカートには消臭剤をふりかけ、ブラウスは洗うことにする。下着類とは別のネットに入れ洗濯機を回す。その間に軽くシャワー。まだ六月とはいえ、湿度と食事で汗をかいていた。

 今日は帰りに仕事関係で飲んでくると言っていたし、私もラーメンを食べたので、夕食は必要ない。明日の朝ご飯とお弁当の準備をする。仕込んだ食材を冷蔵庫にしまい、今朝水に漬けておいた食器と弁当箱を洗う。

「よし」

 濡れた手をタオルで拭い、時計を見ると時刻はまだ八時。帰ってくるのは多分十時頃だろう。残業があっても、飲み会があっても、必ず十時には帰ってくる。帰ってきてくれる。

 シャワーの蒸気が残る浴室で、ぴぴぴっとお風呂をセットする。十時にお湯が張れるように。帰ってきたらすぐ入ってもらえるように。

「……んー」

 脱衣所で伸びをして身体を解し、それから私は自室へと戻った。

 ベッドに寝転がり『アイスト』を起動する。

 帰宅までの二時間、どうせなら積極的に時間を活用すべきだ。今のうちにイベントを進めておこう。

 赤点をとったレネはライブを休み、学校の補習を受けている。アイドルになるため一人上京してきたレネは、いつも仕事に家事に勉強にと寝る間もないほど頑張っている。実家の両親と約束しているのだ。全部ちゃんとやる、と。

 せっかく仕事が休みになったというのに、レネは補習を真面目に受け、家に帰ってからも深夜まで机に向かっている。

 テストで出た応用問題が解けず、『何で私、こんなにできないんだろう』と涙ぐんでいる。

 『努力が足りないからだ。だってみんなはちゃんとできてるんだもの』と更に机にかじりつく。

 やっぱりレネは偉い。立派だ。

 同じ赤点でも私とは全然違う。

 続くイベントを読み進め、ライブを再開できるようになった頃には、もう十時近くになっていた。

 溜まったスタミナを消費したいところだけど、ここは少し我慢しないと。そろそろ帰ってくる時間だから。

 部屋を出てキッチンへ向かう。さっき洗ったグラスを冷蔵庫に入れておく。テーブルの椅子を引き腰掛けようとしたところで、ちょうどインターホンの音がした。椅子はそのままに玄関へ向かう。

「ただいまあ……」

 ドアを開けると、その隙間から疲れた声と赤ら顔が入ってきた。

「おかえりなさい、季帆(きほ)さん」

「遅くなってごめんね」

「ううん。こんな時間までお疲れさま」

「本当はもっと早く帰りたいんだけどねー」

 季帆さんは「えへへ」と笑いながら、ショルダーバッグを床に置いた。

 どすんと重い音が響く。

 小柄な季帆さんの肩に、今の今まで掛かっていた重み。

 大人は重いもの背負って大変だな、といつも思う。私の鞄なんて、いつもすかすかでぺらぺらなのに。

「上着貸して。ハンガーかけとくよ」

「いいよいいよー。今日は安い居酒屋だったから、タバコ臭いよ。舞夕ちゃん、もうお風呂入ったでしょ? 臭い、ついちゃうから」

 上がり框に腰を下ろし、手で顔を扇ぐ季帆さん。

「気にしないで。帰って汗は流したけど、お風呂はまだだから。季帆さん、先に入っちゃって」

 バッグを拾い、半ば強引に上着をはぎ取る。

「いつもありがとう。でも、そんなに気を遣わなくてもいいのに」

「ううん。季帆さん、いつも大変だから」

 廊下を進むと、後ろからぱたぱたとスリッパの音がついてくる。

「確かに仕事もつき合いも大変だけどねー」

 追いついてきた季帆さんが、笑顔を向けてくる。

「自分の力で生きてくためには必要なんだよ!」

 普段は大人っぽく落ち着いた雰囲気の季帆さんだけど、家で見せる隙だらけの笑顔には幼さがまだ残っていて、それが羽で撫でるように私の罪悪感をくすぐってくる。

「……喉乾いてるでしょ。冷蔵庫の水飲んでね。グラスも冷やしてあるから」

 そう早口で言い残し、私は季帆さんの部屋に駆け込んだ。

 季帆さんの部屋。

 元はお父さんと季帆さんの部屋。

 昔はお父さんとお母さんの部屋だった。

 お父さんはもういない。

 一年と少し前。梅雨時の雨の日。

 その日、日本人男性の平均寿命がまた少し短くなった。

 よく分からない難しい病気だった。主治医の先生が病名を口にするのを聞いたことがあったけれど、『□※○・▲―』と異星人の言葉にしか聞こえなかった。

 お母さんは、お父さんが体を壊したときに出ていった。

 季帆さんは、病気に苦しみながら働き続けるお父さんの側にいてくれた。仕事でも、それ以外でも、希帆さんはずっと支えてくれていた。

 お父さんのお葬式の後、親族一同の前で希帆さんは宣言した。

 『舞夕ちゃんが自分の力で生きられるようになるまでは、私が一緒にいます』と。

 私は早く自立しないといけない。大学なんて行っている暇はない。

 だって季帆さんはまだ二十九歳。これからのある人だ。

 私には、この人を解放する義務がある。

 でも。

 それでも。

 まだもう少しだけ許してほしい。

 高校を卒業するまでは待ってほしい。

 だから今は訊けない。

 何で彼氏つくらないの?

 そんなこと、今は訊けない。



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