期末テストで一番になれなかったら死ぬ
 それ以来、学校で鹿島くんの姿を見ることが増えた。

 隣のクラスなのだから、当たり前といえば当たり前なのだけど。

 多分、前から見かけてはいたんだろう。回数が増えたわけではなく、私がそれに気づくようになっただけだ。

 鹿島くんは窓際一番前の席に座っている。そして見る度いつもがりがり勉強している。よくそんなに勉強することがあるものだと感心する程に。

 そうして机に齧りついている鹿島くんだけど、ちょっと意外なほど友だちが多いことに気がついた。休み時間に勉強していると、大抵は誰かにちょっかいを出されるのだ。

 男子は鹿島くんの机を覗き込んだり、ノートの上に雑誌を広げたりする。

 近くで集まっていた女子たちが不意に話を振ったり、スマホの画面を見せたりもする。

 鹿島くんの反応はいつも同じ。最初は鬱陶しそうな顔で返事をしているのに、気がつけば相手と一緒に笑っている。

 人に好かれる人なんだな、と思う。

 じゃあ私に対するあの態度は何なんだ、とも思う。



 鹿島くんは体が丈夫じゃないというのにも、すぐ気づいた。安曇が言っていたとおりだった。

 とある日の休み時間、何だか廊下が騒がしかったので様子を見に行くと、数人の男女が鹿島くんを囲んでいるのに出くわした。

 鹿島くんは丸めたティッシュを口許にあてていて、その足下には赤い水溜まりができていた。

「あれ、どうしたよ?」

「ん、鹿島が鼻血出してさ」

「また? どんだけえろいこと考えてんだよ!」

「ううはい」

「えー、鹿島くん、だいじょうぶー?」

「へいひはよ」

 うるさい。平気だよ。
 と、もごもご鼻声で話す鹿島くんにも、取り囲んでいる男子女子にも、深刻な様子は窺えなかった。

 そこにあったのは『またかよ』、『仕方ないなあ』といった苦笑いの空気で、これはいつものことなのだと私は知った。



 またとある日の授業中。保健室で心を休めていた私の耳に、グラウンドからの嬌声が届いた。

 何ごとかと気になったので、スマホをしまって窓から外を覗くと、校舎の壁際で体操服姿の女子たちが群れているのと、グラウンドのトラックで男子たちがわらわらと誰かを取り巻いているのとが見えた。

 しばらく見ていると、その囲いの中から、がっしりした体つきの男子に肩を貸された鹿島くんがゆっくりと歩み出てきた。

 目立った外傷はないし、足を引きずるでもない。ただ俯いて歩いているところからすると、貧血でもおこしたのだろう。

 体弱いのに体育なんてよくやるね。私と違って心が健康なのかな。

 そんなことを考えながら見ていたら、鹿島くんたちは次第に私のいる方へと近づいてきた。

 それはそうだ。私が居るのは保健室なのだから。

 慌てて窓際を離れたら、ベッドに膝を思いきりぶつけてしまった。

 涙目になりながら廊下に出たが、なかなか痛みがおさまらない。

 湿布が欲しくても保健室に戻るわけにもいかず、さりとて授業中に行くあてもなく、私はトイレの個室で次の休み時間を待つはめになった。



 そしてある日。安曇と廊下を歩いているときのことだった。

「ひまり」

 その声に、私と安曇は同時に立ち止まった。それは紛れもなく鹿島くんの声で、彼が口にした『ひまり』というのは安曇の名前だったから。

 振り返った直後、鹿島くんは安曇だけを見ていた。

 それから隣の私にちらりと視線を向けて「げ」と声を漏らした。

 いや、『げ』はないでしょう、『げ』は。

 安曇は、鹿島くんと私とを交互に見て微かに笑みを浮かべ、それから私に背を向けて言った。

「怜央、どうしたの?」

 怜央。その言葉の響きを聞いたのは初めてだった。掲示板でその名前は見ていた。保健室でも、彼自身の直筆を見ている。だけど、誰かが口にしたその名前を聞くのはこれが初めてだった。

「これ、例のチケット。母さんから」

「はいはい。勿体ないね、せっかくとれたのに」

「無駄にするより、代わりに行ってもらった方がいいとさ」

「それもそうだね。出張って言ってたっけ」

「ああ。急に決まったそうだ」

 と、安曇は鹿島くんと話を始めてしまった。

 私には分からない話だ。

 仕方ないので、私は三歩離れて話が終わるのを待つことにした。

「こないだのあれ、ひまりも参加した?」

「ううん。行くと思う?」

「いや。だとは思った」

 二人は低く小さい声で話し合っている。

 人に聞かれたくない、というふうじゃない。ただ、近くで話すのが当たり前だという様子だった。

 聞こうとしている訳ではないのに、耳からは二人の声が入り込んでくる。だが、二人の話は、あれとかこれとか指示代名詞ばかりで話の意味が掴めない。

 と、連綿と続く意味の分からない言葉の連なりの中に、際立って特異な言葉が聞こえた。

「期末テストで一番になれなかったら死ぬ」

 ……ん?

 声が出そうになったが、どうにかこうにか呑みこんだ。

 文章の意味は分かる。が、何を言いたいのかはまるで分からなかった。

 何、鹿島くん、死ぬの?

「じゃあ、明日には頼む」

「はいはい」

 どうやら話は終わったらしく、歩きだそうとする鹿島くんに、安曇はしっしつと手を振った。

 そして去り際、鹿島くんはご丁寧に私を睨みつけ、ぷいっと大げさに顔を背けて行った。

 子どもかな? というか何故私はそんなに嫌われなくちゃいけないんだ。

「ごめんね、お待たせ!」

 と、安曇が弾けるような笑顔と声で私に言った。

 鹿島くんと話していたときとは全く違う、私の知っている安曇だ。

「今日も吉祥寺寄ってくでしょ? どこ行こっか」

 私の知っている安曇が、私の知っている話をし始めた。

「ねえ、安曇」

 でも私は。

「鹿島くんのこと、あんまり好きじゃないの?」

 私は、そうじゃない話を聞きたい。

 安曇は浮かべていた笑みを微かに曇らせ、「んー」と唸った。

「どうだろ。てか、鶴ちゃんでもそういうこと気にするんだね!」

 再びの笑顔とともに繰り出された反撃が、今度は私の言葉を詰まらせた。

 安曇は言外にこう言っているのだ。

 鶴ちゃん、私に何て答えて欲しかったの?

「……ねえ」

 私は安曇の無言の問いかけを無視することにした。

「鹿島くんさ、死ぬの?」

 反撃の意図だけがあった訳ではない。純粋な興味もあった。

 私の奇襲的な質問に、安曇は目を見開き、それから視線をすっと逸らした。

「……死なないよ」

 そして前を向き、歩き出す。

「そういう覚悟ってだけだよ」



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