再会彼氏〜元カレは自分を今カレのままだと誤認しているようです~
コーヒー落とすとか、そんなの気にしてる場合じゃない。
ベンチの端にカップを置いて力いっぱい押し返したけど、もう遅かった。
「……っ、律はそのどっちでもないよ……! 」
愛情の深さと重さは、普通とは言わない。
でも、同じくらい普通じゃないほど優しいし、大切にしてくれる。
悪魔なんかじゃない。
狂ってなんかない。
『お前は、そこまで狂わなくていいよ』
たとえ律自身が認めてたって、私は絶対否定する。
今吉井くんを振り払って立ち上がったのは、怖かったからじゃない。
好きな人を悪魔だなんて言われて、許せなかったから――……。
「……へぇ、そうなんだ。あそこまでやられても、まだそう言えるんですね。じゃ、俺なんて可愛いもんでしょう? 」
後ろから抱きしめられて、身動きできない。
「……っ」
唇が首筋を掠めるギリギリのところにある気配がして、思いっきり鳩尾を肘で打ってやろうと構えた時。
「できるんですよ、俺だって。それくらいには、もう頭おかしくなってる。キスもしたことないのに、こうして触れられるくらい、卑怯で最低な男なんです。……あいつと比べて、全然平気かもしれないけど」
(……下手くそすぎるよ)
もしくは、ちっとも狂ってない正気な善人だ。
ううん、吉井くんはそのどちらもなんだよ。
「……あれをキスに数えないでくれる時点で、吉井くんはいい人だよ。だから、離して」
あの階段で、唇はきっと一瞬でも重なってた。
合意じゃないからと、付き合ってないからとキスに入れないのは、逃げというより私の為になかったことにしたんだと思う。
だって。
「……震えてるの、吉井くんの方だよ」
「……っ」
肘鉄なんかしなくても、前に進むだけでするりと抜けられた。
だから、大丈夫。
吉井くんは、狂ったりなんてしないでいられる。
「俺が怯えてるって、本気で思ってるんですか。……そうですね。そうかもしれない。でも、怖いと思ってる理由は、城田さんが考えてることと全然違う」
すり抜けたくらいで安心してるのが癪だと言うように、後ろから手首をぐっと引かれた。
「自分の頭が壊れてく過程が分かって、怖いんですよ。あの人よりはまだ、“いい人”だから。正気の部分があるからこそ、頭イッてる自分に気づけてる。……怖くて当たり前でしょう。だって」
今度息を呑んだのは私の方で、吉井くんはもう動揺している様子は微塵もない。
「今、ここに痕つけたって、何にもならない。まともでいい人の俺は、そんなこと分かってるけど」
ドクドクと脈を打つのに、熱くなるどころか血の気が引いた。
「どうせ何も残らないなら、こんなただの先輩後輩の関係なんて、いっそ跡形もなくぐちゃぐちゃに壊してやりたいって思う俺も、確実に存在する。いい子ちゃんの俺を、どんどん食ってくんです。……ねえ、分かります? そんなの、怖くないわけないじゃないですか」
狂ってなんかない。
誰も。
それとも、誰だって人には開示できない思考の一つや二つあるのかもしれない。
ううん、違う。
違う――……。
「あ。やっと怖がりましたね、俺を。うん……そうですよ。いい子だって後輩だって、男なんですから。大体、キスされかけてんのに隙ありすぎです。それが、正常の反応。……それとも、違うのかな」
考え方も、想像も、妄想も。
心に留めておけば、誰にも見られずに単なる「普通」の人だ。
問題になるのは、それを誰にどこまで見せていくか。
「怖いのは、俺じゃなくて。移り香だけじゃなく、痕までつけられた日には、狂愛彼氏に何されるか分からない……って。だから、そんなに震えてるんですか? 」
吉井くんは違う。
これこそ、きっとパフォーマンスだ。
私の反応にイラッとしたから。ただ、それだけ――……。
「壊れきったら、怖くなくなるのかな。でも、やっぱり本気で好きだから……あなたのこと、俺は壊したくはないんです。可愛いのを歪ませて喜ぶ癖なんて、俺にはないから……安心して」
――俺を、壊してみてくださいよ。