夫が「愛していると言ってくれ」とうるさいのですが、残念ながら結婚した記憶がございません
 アンナは大きく肩で息をつく。
『その書類を確認したのは、シャーリー・コルビーという者です。三日前からこちらで働くようになりました。こういった計算が得意ですので、今後ともよろしくお願いします』
『アンナ、どうかしたの? あっ……』
 アンナの後ろには薄紫色の珍しい髪色の女性が立っていた。アンナよりも背は低く、ランスロットに気がついた途端、動きを止める。
『シャーリー、何でもないわ。あなたは席に戻っていなさい』
『ごめんなさい』
 薄紫色の髪の女性は、身体を抱きかかえるようにして戻っていく。
(今の彼女がシャーリー?)
『失礼しました。彼女は人見知りなところがありますので。本件については、私の方から伝えておきます』
 シャーリーの動きを目で追っていたランスロットは「また、頼む」とだけ口にして、事務室の前を後にした。
 だが、執務室に戻ったランスロットは、シャーリーのことが忘れられなかった。
 ランスロットを見た瞬間、怯えたように距離をとり、そして体を震わせていた。
 間違いなく初対面だ。彼女に何かをした記憶は一切ない。
 それに、ランスロットも女遊びが激しいわけでもない。こちらから望んだとしても、相手に逃げられてしまう方が多く、そういったことすら望まなくなったし、金を払ってまでどうのこうのというのも、煩わしくなるような立場になってしまったからだ。
 となれば、彼女は『燃える赤獅子』と呼ばれるその風貌に怯えたのだろうか。
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