若旦那様の憂鬱
当時、私が10歳、彼は17歳。
10歳の私にとって、彼はとても大人に見えて、別世界の人で近寄り難い存在だった。
母がこの旅館で働く事になり、
初めて彼に紹介されたのは、その日の夕方。
「こっちが長男の柊生(しゅうせい)、こっちが次男の康生(こうせい)。
母親は康生が5歳の時に病気で亡くなってるんだ。」
そう旦那様に紹介された。
私はというと、ろくに挨拶も出来ず、母の後ろに隠れひたすら俯いていた。
目を合わす事さえも出来なかった。
その頃から義父は旦那様と呼ばれ、祖母の大女将と共にこの旅館を切り盛りしていた。
「初めまして花ちゃん、よろしくね。」
そう言って、私を覗き込んできた彼は爽やかな好青年で、今でいう表の顔だった。
当時の私は、相当な人見知りで、
始めての土地で友達もなかなか出来なくて、
よく母の仕事の帰りを待って、アパートの前で絵を描いたり、旅館の庭に潜り込んでは鯉の池に餌をあげたり、放課後は1人でいる事が多かった。
私は兄弟の事を、柊君、康君と呼び、唯一の遊び相手は弟の康君だけだった。
康君とは、年が近い事もありすぐ懐き、彼の習い事がない日は、一緒に駄菓子屋さんに行ったり、庭先でバトミントンをしたりして遊んだ。
柊君とは、その頃の私にとっては近寄り難く、話しかけ辛い存在だった。
学校帰りに見かける事はあったけど、いつも可愛い女の子達と一緒で、まるで違う世界の人のようだった。
そんな柊君との唯一のやり取りは、庭先や学校帰りに偶然顔を合わせると、いつも私を手招きして呼び寄せ、チョコや飴など、いろいろなお菓子をくれる事だった。
今思うと、柊君からしたら、野良猫に餌付けしてるような感覚だったのかもしれない。