生々流転〜繰り返される夏休み〜
第二話 美波と海斗
『それではこれより、読売ジャイアンツのスターティングメンバーを発表いたします、一番、セカンド――』
ウグイス嬢が選手の名前を呼ぶたびにスタンドからは歓声が上がった、結局成り行き上しかたなく東京ドームまで来てしまった、彼女には妹のフリをするのが条件だと言うと渋々了承した。
彼女は何者なのか――。
狙いは何なのか、分からないことが多すぎる、まずは情報を集めなければ。
「星野さんは――」
「美波」
「は?」
「妹に星野さんはないでしょ」
おっしゃる通りなので反論が出来ない。
「えっと、美波は何歳になるんだっけ」
「十七歳」
球場内はカクテル光線で眩しいはずなのに目の前が真っ暗になった、心の何処かでせめて二十歳は超えていれば大丈夫だと考えていたからだ、それならば彼女の自己責任だ。
十七歳では言い逃れは通らないだろう、まさか家出少女じゃあるまいな、知らないうちに誘拐犯になっている可能性もある。
「家はどこなの」
幸い試合が始まる前で席はガラガラ、会話を聞かれる心配はなかった。
「海斗くんちの近くだよ」
「学校はどうした」
彼女は少しムッとした顔をこちらに向けた。
「海斗くん、質問が多いなあ、それに今は野球を観に来てるんだから、野球以外の話題は受付けませーん、ちなみに学校は夏休み」
何てこった、近所に住んでいる未成年って事しか聞き出せなかった。しかも最悪の情報だ。
『近所の変態独身中年男が女子高生を誘惑』
平穏な日常を過ごしてきたのに、今までも、そしてこれからだって。
「ビールください」
近くを通りかかった売り子を呼び止めた、現実逃避しよう、何も無理やり連れ回している訳じゃない、野球好きの女子高生と中年男が東京ドームに来てたって良いじゃないか。
良くねえよ――。
「おつまみ、なんか買ってこようか?」
彼女は僕が観念して野球観戦を楽しむと察して笑顔になった、せっかくなのでお願いする。
「星野さ……、美波も弁当とか、適当に買ってきて良いから」
パスケースからICカードを取り出して彼女に渡した、普段は相棒で決済するが万が一充電が切れた時の為に予備として交通系のICカードに一万円程チャージしてある。
「なにこれ可愛いー」
「ああ、北海道で買ったらそれだった」
「えー、いいないいなー」
東京版ではペンギンがモチーフのキャラクターだが、北海道ではなぜかモモンガになっている、両手両足を広げて滑空しているイラストが特段かわいいと感じた事はなかった。
「あげるよ」
チャージしてあるお金はチケット代にしてくれ、と伝えると彼女は甲子園で全国制覇でもしたかのような喜び方で大騒ぎしていた、そこまで喜んで頂けるとまあ悪い気はしない。
試合が始まると少しずつ客席が埋まってきた、低迷する野球人気が問題になっているが、ミーハーな野球ファンが大勢球場に押し寄せるよりはコアなファンだけでゆっくりと楽しみたいのが本音だった。
試合はヤクルトリードのまま進んでいった、彼女は上機嫌でおかしをツマミながら野球観戦に興じている、そして意外な事にその知識は僕が想像する遥か上をいっていた、どうやら選手をアイドル扱いするミーハーファンではないようだ。
「あっちゃー、フィルダースチョイスかあ、何やってるのよー」
野球をやっていた人間でもちゃんと説明するのが難しいような単語が出てくる。
「今のは、堅実に一塁だよねー」
点差が開いたこの場面で無理をする事はない、確かに戦術上の指摘も的をいている、僕は頷いた。
『ヤクルトスワローズ、ピッチャーの交代をお知らせします』
左のワンポイントの名前が告げられた。
「サウスポーかあ、ねえ海斗くん、なんで左利きをサウスポーって言うの」
ビールを一口飲んでから答える。
「まあ、諸説あるけど、信憑性が高いのは左ピッチャーがマウンドに立った時にpaw(腕)がsouth(南)を向くことが多いからだって言われてるね」
「え、どうして南向きになるの」
「昔の球場は西日を避けるために、ホーム側を西にして屋根で遮ろうとしたんだ、今ではドーム球場が多いから関係ないだろうけど」
「へー、さすが野球オタクだね」
オタクという言葉に反感を覚えたが、感心したように彼女が頷いているので否定しないで飲み込んだ。
交代したピッチャーが投げた初球、快音を残した打球は物凄い勢いでライトスタンドに飛び込んだ。目の前に座っている若いカップルが立ち上がって興奮している。一塁側は巨人ベンチなので恐らくファンなのだろうが、景色を遮られた事にイライラした。
「チッ、見えねえだろうが」
盛り上がる球場内でも、聞こえるような声で文句を言った、そもそも自分が立ち上がったら、後ろの人間は見えなくなると考えないのだろうか不思議だった。コイツラは映画館でも盛り上がったら席を立つのだろうか。馬鹿の行動は読めないし、理解するつもりもない、しかしこちらの気分を害した事をしっかりと相手に伝えることは忘れない。全てを自分が我慢する事などありえないのだから。
「あっ、すみません」
女のほうが申し訳なさそうに謝りながら席についた、男の方は頭も下げずにこちらを一瞥しただけだ、やれやれ、キチンと謝罪も出来ないとは。偏差値の低そうな顔をしてるがおそらく年収も低いだろうと予想した。
試合も終盤に差し掛かり尿意を感じてトイレに立った、インプレイ中なのでそれ程混雑していない、入念に手を洗ってトイレを出ると目の前に座っていたカップルの男とすれ違った、さっと一瞥して横を通り抜ける。
「おい、待てよテメエ」
クックック、心のなかで嘲笑った、なるほどわざわざ付いてきたわけだ、ご苦労さん――。
「なんですか?」
高圧的にならないように、かつ下手にもならないような丁度いいバランスで返事ができた事に満足した。
「なんですかじゃねえよ、テメエ喧嘩売ってんのか」
「………………」
腹がよじれるくらい笑いたかったが何とか我慢した、今時こんなセリフを吐く人間がいるとは本当に貴重だ、アニメの第一話に出てくるモブキャラでもこんなストレートなセリフは吐かないだろう、素晴らしい、心の中で彼を称賛した。
汚いニキビ跡にチリチリのパーマは天然だろうか、年齢はどうだろう、二十六歳といったところか、見た目まで雑魚感が全面に出ているので彼には百点満点をあげることにした。
「いや、とんでもない、気分を害したなら謝るよ」
イマイチなセリフを返してしまった事に後悔した、それより早く席に戻ろう、これから巨人の攻撃が始まる。
「ちょっと、こっちに来いよ」
やりやれ、引き際が分からない奴だな、仕方なく彼の肘から下辺りを無造作に右手で掴むと少し力を加えた。
「イタタタっ」
生まれつき握力だけが異常に強かった、その上、毎日鍛えるようになったので、今ではどちらの手でもリンゴを握りつぶすことができる。身長百七十五センチ、体重六十五キロ、一見すると細身な体格を見て喧嘩を売ってきたのだろう、さらに左手で顔面を無造作に掴んで力を込めた。
「ちょっ、やめ、やめてくださ――」
すぐに手を放すと、その場にへたり込んだ男は大袈裟に掴まれた場所をさすっている、見ると赤黒く変色していた、少し力を入れすぎたようだ。
「あのさ、これはアドバイスなんだけど」
「は?」
男は腕をさすりながら畏怖の目をこちらに向けている。
「あの女とは別れたほうがいいよ」
それだけ言うとさっさと席に戻ったが巨人の攻撃はすでに終わっていた、どうやら今日は旗色が悪そうだ。
「遅かったね、混んでたの」
さっきまでポテトチップスを食べていた彼女はチョコレートをかじっていた、よくお菓子だけをそんなに食べれるものだと感心する。
「ああ、前の席の兄ちゃんに絡まれちゃった」
「えー、大丈夫だったの」
彼女が答えると同時に、前に座っている女の肩がピクッと揺れた、自分の彼氏がどうなったのか気になっているのだろう。
「うん、ボコボコにしてトイレに放り込んだ、これから仲間が来て攫っちまうからさ、可哀想に漁船にでも乗せられて強制労働だな、女はソープで死ぬまで――」
話が終わる前に、目の前に座っていた女は立ち上がり、荷物をまとめて逃げるようにして帰っていった。
「ちょっと、海斗くん……」
彼女は非難を帯びた目で僕を凝視している、少しやりすぎだったろうか。
「冗談だよ、冗談」
それから数分すると男が戻ってきた、自席に連れがいないので席を間違えていないか確認する、こちらをみて軽く頭を下げた。
「彼女なら帰ったよ」
親切に教えてあげると首をかしげながらスマートフォンを操作している、やがて諦めたのか「失礼します」と言って男も帰っていった。目の前に人がいなくなり快適になった事に満足したが、結局巨人は大差で負けた。
ウグイス嬢が選手の名前を呼ぶたびにスタンドからは歓声が上がった、結局成り行き上しかたなく東京ドームまで来てしまった、彼女には妹のフリをするのが条件だと言うと渋々了承した。
彼女は何者なのか――。
狙いは何なのか、分からないことが多すぎる、まずは情報を集めなければ。
「星野さんは――」
「美波」
「は?」
「妹に星野さんはないでしょ」
おっしゃる通りなので反論が出来ない。
「えっと、美波は何歳になるんだっけ」
「十七歳」
球場内はカクテル光線で眩しいはずなのに目の前が真っ暗になった、心の何処かでせめて二十歳は超えていれば大丈夫だと考えていたからだ、それならば彼女の自己責任だ。
十七歳では言い逃れは通らないだろう、まさか家出少女じゃあるまいな、知らないうちに誘拐犯になっている可能性もある。
「家はどこなの」
幸い試合が始まる前で席はガラガラ、会話を聞かれる心配はなかった。
「海斗くんちの近くだよ」
「学校はどうした」
彼女は少しムッとした顔をこちらに向けた。
「海斗くん、質問が多いなあ、それに今は野球を観に来てるんだから、野球以外の話題は受付けませーん、ちなみに学校は夏休み」
何てこった、近所に住んでいる未成年って事しか聞き出せなかった。しかも最悪の情報だ。
『近所の変態独身中年男が女子高生を誘惑』
平穏な日常を過ごしてきたのに、今までも、そしてこれからだって。
「ビールください」
近くを通りかかった売り子を呼び止めた、現実逃避しよう、何も無理やり連れ回している訳じゃない、野球好きの女子高生と中年男が東京ドームに来てたって良いじゃないか。
良くねえよ――。
「おつまみ、なんか買ってこようか?」
彼女は僕が観念して野球観戦を楽しむと察して笑顔になった、せっかくなのでお願いする。
「星野さ……、美波も弁当とか、適当に買ってきて良いから」
パスケースからICカードを取り出して彼女に渡した、普段は相棒で決済するが万が一充電が切れた時の為に予備として交通系のICカードに一万円程チャージしてある。
「なにこれ可愛いー」
「ああ、北海道で買ったらそれだった」
「えー、いいないいなー」
東京版ではペンギンがモチーフのキャラクターだが、北海道ではなぜかモモンガになっている、両手両足を広げて滑空しているイラストが特段かわいいと感じた事はなかった。
「あげるよ」
チャージしてあるお金はチケット代にしてくれ、と伝えると彼女は甲子園で全国制覇でもしたかのような喜び方で大騒ぎしていた、そこまで喜んで頂けるとまあ悪い気はしない。
試合が始まると少しずつ客席が埋まってきた、低迷する野球人気が問題になっているが、ミーハーな野球ファンが大勢球場に押し寄せるよりはコアなファンだけでゆっくりと楽しみたいのが本音だった。
試合はヤクルトリードのまま進んでいった、彼女は上機嫌でおかしをツマミながら野球観戦に興じている、そして意外な事にその知識は僕が想像する遥か上をいっていた、どうやら選手をアイドル扱いするミーハーファンではないようだ。
「あっちゃー、フィルダースチョイスかあ、何やってるのよー」
野球をやっていた人間でもちゃんと説明するのが難しいような単語が出てくる。
「今のは、堅実に一塁だよねー」
点差が開いたこの場面で無理をする事はない、確かに戦術上の指摘も的をいている、僕は頷いた。
『ヤクルトスワローズ、ピッチャーの交代をお知らせします』
左のワンポイントの名前が告げられた。
「サウスポーかあ、ねえ海斗くん、なんで左利きをサウスポーって言うの」
ビールを一口飲んでから答える。
「まあ、諸説あるけど、信憑性が高いのは左ピッチャーがマウンドに立った時にpaw(腕)がsouth(南)を向くことが多いからだって言われてるね」
「え、どうして南向きになるの」
「昔の球場は西日を避けるために、ホーム側を西にして屋根で遮ろうとしたんだ、今ではドーム球場が多いから関係ないだろうけど」
「へー、さすが野球オタクだね」
オタクという言葉に反感を覚えたが、感心したように彼女が頷いているので否定しないで飲み込んだ。
交代したピッチャーが投げた初球、快音を残した打球は物凄い勢いでライトスタンドに飛び込んだ。目の前に座っている若いカップルが立ち上がって興奮している。一塁側は巨人ベンチなので恐らくファンなのだろうが、景色を遮られた事にイライラした。
「チッ、見えねえだろうが」
盛り上がる球場内でも、聞こえるような声で文句を言った、そもそも自分が立ち上がったら、後ろの人間は見えなくなると考えないのだろうか不思議だった。コイツラは映画館でも盛り上がったら席を立つのだろうか。馬鹿の行動は読めないし、理解するつもりもない、しかしこちらの気分を害した事をしっかりと相手に伝えることは忘れない。全てを自分が我慢する事などありえないのだから。
「あっ、すみません」
女のほうが申し訳なさそうに謝りながら席についた、男の方は頭も下げずにこちらを一瞥しただけだ、やれやれ、キチンと謝罪も出来ないとは。偏差値の低そうな顔をしてるがおそらく年収も低いだろうと予想した。
試合も終盤に差し掛かり尿意を感じてトイレに立った、インプレイ中なのでそれ程混雑していない、入念に手を洗ってトイレを出ると目の前に座っていたカップルの男とすれ違った、さっと一瞥して横を通り抜ける。
「おい、待てよテメエ」
クックック、心のなかで嘲笑った、なるほどわざわざ付いてきたわけだ、ご苦労さん――。
「なんですか?」
高圧的にならないように、かつ下手にもならないような丁度いいバランスで返事ができた事に満足した。
「なんですかじゃねえよ、テメエ喧嘩売ってんのか」
「………………」
腹がよじれるくらい笑いたかったが何とか我慢した、今時こんなセリフを吐く人間がいるとは本当に貴重だ、アニメの第一話に出てくるモブキャラでもこんなストレートなセリフは吐かないだろう、素晴らしい、心の中で彼を称賛した。
汚いニキビ跡にチリチリのパーマは天然だろうか、年齢はどうだろう、二十六歳といったところか、見た目まで雑魚感が全面に出ているので彼には百点満点をあげることにした。
「いや、とんでもない、気分を害したなら謝るよ」
イマイチなセリフを返してしまった事に後悔した、それより早く席に戻ろう、これから巨人の攻撃が始まる。
「ちょっと、こっちに来いよ」
やりやれ、引き際が分からない奴だな、仕方なく彼の肘から下辺りを無造作に右手で掴むと少し力を加えた。
「イタタタっ」
生まれつき握力だけが異常に強かった、その上、毎日鍛えるようになったので、今ではどちらの手でもリンゴを握りつぶすことができる。身長百七十五センチ、体重六十五キロ、一見すると細身な体格を見て喧嘩を売ってきたのだろう、さらに左手で顔面を無造作に掴んで力を込めた。
「ちょっ、やめ、やめてくださ――」
すぐに手を放すと、その場にへたり込んだ男は大袈裟に掴まれた場所をさすっている、見ると赤黒く変色していた、少し力を入れすぎたようだ。
「あのさ、これはアドバイスなんだけど」
「は?」
男は腕をさすりながら畏怖の目をこちらに向けている。
「あの女とは別れたほうがいいよ」
それだけ言うとさっさと席に戻ったが巨人の攻撃はすでに終わっていた、どうやら今日は旗色が悪そうだ。
「遅かったね、混んでたの」
さっきまでポテトチップスを食べていた彼女はチョコレートをかじっていた、よくお菓子だけをそんなに食べれるものだと感心する。
「ああ、前の席の兄ちゃんに絡まれちゃった」
「えー、大丈夫だったの」
彼女が答えると同時に、前に座っている女の肩がピクッと揺れた、自分の彼氏がどうなったのか気になっているのだろう。
「うん、ボコボコにしてトイレに放り込んだ、これから仲間が来て攫っちまうからさ、可哀想に漁船にでも乗せられて強制労働だな、女はソープで死ぬまで――」
話が終わる前に、目の前に座っていた女は立ち上がり、荷物をまとめて逃げるようにして帰っていった。
「ちょっと、海斗くん……」
彼女は非難を帯びた目で僕を凝視している、少しやりすぎだったろうか。
「冗談だよ、冗談」
それから数分すると男が戻ってきた、自席に連れがいないので席を間違えていないか確認する、こちらをみて軽く頭を下げた。
「彼女なら帰ったよ」
親切に教えてあげると首をかしげながらスマートフォンを操作している、やがて諦めたのか「失礼します」と言って男も帰っていった。目の前に人がいなくなり快適になった事に満足したが、結局巨人は大差で負けた。