重愛注意】拾われバニーガールはヤンデレ社長の最愛の秘書になりました 3

忘れていたトラウマ

「……かーすみ」

「わっ」

 放心していたところ、健二がソファ席の隣に座ってきた。

「や……っ、めて。近い……っ」

 とっさに壁際に逃げたが、そちらは勿論逃げ場がない。

「何だよ、付き合ってた仲なのに」

「いっ……今は、付き合ってない! 他人でしょ!」

(まずい!)

 完全個室のこの店に入った時から嫌な予感はしていたが、今日一日の健二が紳士的だったのと、もう予約してしまったのでは断れないと思い入店してしまった。

(久住さんと佐野さんに知らせないと!)

 彼らもこの店に入っているのなら、どこかの個室にいるに違いない。

「わ、私、お手洗い行ってくる!」

「えぇ?」

 健二が体を押しつけ、無遠慮に香澄の胸を揉んできた。

「!」

 ぐぅっと例えようのない嫌悪感が襲い、気分が悪くなる。

(駄目……。もうちょっと、我慢しなきゃ)

 香澄は無理に立ち上がり、健二の体を跨いで個室を出ようとした。

「待てよ!」

 思いきり腕を引っ張られ、健二に抱き締められる。
 顔の近くでアルコールの入った荒い息が吐かれ、酒の匂いを感じてグワッと忘れていた過去を思いだした。

「…………ぁ…………」

 ――叫んだ。

 つもりだった。

 あの時、車の天井を見上げながら、香澄は体を無遠慮にまさぐる手をただ我慢するしかできなかった。
 叫ぼうとして、叫んだら怒られると思って必死に何もかもを呑み込んだ。

〝そんなつもり〟はなかった。

 あの時はただ、呼ばれたから彼の車に乗っただけで――。

 ――あの時、私は……。

〝忘れていた〟事を思い出し、香澄の目の前が真っ暗になる。

 こみ上げた気持ち悪さに、香澄は全力で健二を押しのけ、個室を出て手洗いに駆け込んだ。
 便座を上げ、食べたばかりの物を戻す。

 ――この苦しさは知っている。

 大学卒業近くには、香澄は何度も吐いていた。

 放っておけば食べなくなり、家族や麻衣に心配され、平気なふりをして胃に物を詰め込んだ。
 味も分からず、「美味しい」という感覚すらなく、ただ咀嚼して呑み込んだ。

 そして、吐いた。

 鼻の奥にツンとしたものがこみ上げ、生理的な涙が出る。

(あの頃の私は……、壊れていた)

 自己防衛のためにおぼろげになっていた記憶が、いま生々しく蘇った。

(どうして今日、会おうと思えたんだろう。何をされたのか忘れていたから? 自分は佑さんと付き合っていて、久住さんと佐野さんが見ていてくれると安心していたから?)

 大学生当時、あまりに傷ついた香澄は、健二と〝何〟がきっかけで別れたのかをすっかり忘れていた。
 別れたあとも精神的にボロボロで、それでもきちんと大学に通って現役で卒業したのは、なかば意地になっていたのもある。

 ――私は傷ついていない。
 ――私は×××されていない。
 ――私は可哀想じゃない。
 ――私は被害者じゃない。

 自分に強く強く言い聞かせ、香澄は心を守り切った――つもりだった。

 最近になってとても元気になった香澄に対し、麻衣はあまり大学生当時の話をしたがらなかった。
 どうしてだろう? と思っていたが、それは麻衣なりの思いやりからだ。

「ぅえ……っ、――――ぇえ……っ」

 すべてを吐き切って荒い呼吸を繰り返した香澄は、別の涙を流す。

 しばしぼんやりしたあと、このままでは店の人に迷惑を掛けると思い、慣れた手つきで後片付けをした。
 酒を提供する店で働いていると、必ず手洗いで嘔吐のあとがあったり、人が倒れている事もある。
 それを片付けるのも店側の仕事だ。

 きちんと処理をしたあと、バッグは個室に置いてきたのでトイレットペーパーで鼻をかみ、涙も拭う。
 それから清掃道具が置いてある場所を探し、中に置いてあった消臭スプレーを拝借して使った。

 手洗いを出たが、もう健二と一緒にいたくない。
 グッと覚悟を決めたあと、香澄はすべての感情を殺し、個室に戻った。

「何だよ香澄、いきなり――」

 文句を言う健二を無視し、香澄はバッグから財布を出すと五千円札をテーブルの上に置いた。

「ご馳走様でした、美味しかった。素敵なお店に連れて来てくれてありがとう。でも、もう二度と会わない」

 早口でそれだけ言い、香澄はコートを掴んで個室を出た。

「おい! 香澄!」

 健二が追いかけてこようとするが、香澄は店から走って出た。

 地下一階にある店だったが、階段を駆け上がりビルを出たあと適当な方向に走り続けた。
 二区画ほど走ったあと角を曲がり、コートをしっかり着る。

 スマホを開くと、まだ東京の街に慣れていないのでマップアプリを開いた。

 御劔邸までの道のりを確認すると、徒歩で一時間もかからない。

(頭を冷やすために歩いて帰ろう)

 溜め息をついたあと、香澄はなるべく何も考えないようにして歩き始めた。





 二十分ほどひたすら歩いた時、ヒールを履いた足が痛くなってきたので、近くに見えた公園で一休みする事にした。

 この公園がある南麻布を抜ければ、首都高下を通って白金エリアになる。

 公園は遊具と言えば滑り台程度しかなく、こぢんまりとしてシンプルだ。
 滑り台の降り口に腰掛け、香澄は大きな溜め息をついた。

「……なんで、忘れてたんだろう……」

 分かっている。

 自己防衛本能が働いたのだ。

 けれど、あれだけの事があったのに、どうして呑気にも忘れていられたのかと不思議で堪らない。

 ――と、スマホの着信があった。

 着信音だけで、佑だと分かる。

 今はまだ、彼の顔を見て笑えるほどメンタルが回復していない。
 それでも、声を聞いて安心したいという気持ちはあった。

「……もしもし」

『今どこにいる? 久住たちから完全個室の店に入ったという連絡があった。様子を見るように伝えておいたけど、定期的に店内を巡回させていたら、香澄たちの入った個室に片付けが入っていたと聞いた。香澄がいなくて、二人とも探し回っている』

「ごめんなさい。……ちょっと……一人で歩いて帰りたくなって……」

『うん、分かった。今、どこにいる? 迎えに行くよ。このまま向かうから、話していよう』

 接点を持ち続けようとする佑の気遣いが嬉しく、香澄は微笑む。

 そして、自分が今いる公園の名前を教えた。

 体は外気で冷えて冷静さを取り戻しつつある。

 心は、佑の声を聞いて安心している。
 だから、香澄は彼にあます事なく話してしまおうと思った。

「……あのね、昔の話を聞いてもらってもいい?」

『いいよ、教えて』

 電話の向こうで、カタン、カタン……と物音がする。
 恐らく、家を出る準備をしているのかもしれない。

「ちょっと、暗い、面白くない話なんだけど、いい?」

『構わないよ。香澄の話なら、何でも興味があるから』

「……私ね、前に言ってたように大学一年から二年にかけて、健二くんと付き合っていたの」

『うん』

「健二くんって当時、多分……エッチとかしたい盛りだったと思う」

『まぁ、そうだろうな。二十歳そこそこってそんなもんだし』

「……初めてキスされたのは、健二くんが車の免許をとって、初めて乗せてもらった時だった。家まで送ってくれて、家の近くに車を停めてキスされた」

『……ん』

「あんまり、いいものじゃないなって感じた。佑さんとのキスみたいに、気持ち良くないの」

 電話の向こうで、佑がクスッと笑ったのが聞こえる。

『ありがとう、嬉しいよ』

「……だから、キスより先の事にもあまり興味を持てなかったの」

『うん、分かる気がする』
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