最後の詰みが甘すぎる。
ジリジリと夏の暑さが迫る、六月の下旬。
今頃、廉璽は心臓が焼け付くほどのヒリヒリとした緊張を感じているだろう。
彼が盤上で真剣勝負を繰り広げているというのに柚歩は涼しい会社の中でパソコンと睨めっこしていた。
しかし、平凡な日常はあっさり終わることになる。
……終わらない勝負がないように。
それは昼過ぎのことだった。
朝から私物のタブレットで名人戦のネット配信を見ていた山崎が急に立ち上がり、柚歩の元へと駆け寄ってくる。
職団戦の大将でもある山崎は仕事中でも棋戦の閲覧が許されている。というか、皆は山崎に関してはなにを言っても無駄だと諦めている節がある。
「瀬尾さん!!こりゃまずいぞ!!」
「はい?」
月末の経理処理に追われていた柚歩は、あたふたと慌てている山崎に愛想笑いを返した。
「すみません。対局は見ない主義で……」
「いいから!!」
そう言って山崎がタブレットを柚歩の前に差し出した。山崎の気迫に気圧され、柚歩はタブレットを黙って受け取った。
二日間に渡る名人戦第七局も二日目の昼を過ぎ、いよいよ大詰めを迎えていた。
一進一退の攻防を続けていた二人の均衡がとうとう崩れたのだ。
堅守を誇る渡部名人に対し序盤から攻めの姿勢を崩さなかった廉璽だったが、一手のミスから相手につけ入る隙を与えてしまった。
それまで守りに徹していた渡部名人が一気に攻めに転じる一手を放ち、廉璽は長考に入った。
渡部名人の攻めを受けるか躱すか。かなり際どいところだ。
AIの評価値も渡部名人が六十五パーセント、廉璽が三十パーセントと低い値を叩き出してる。
柚歩はゴクリと唾を飲み込んだ。このままズルズルと攻め込まれれば敗色濃厚なのは明らかだった。