この恋がきみをなぞるまで。
「怪我で、辞めたんだ。もう野球はしない」
一拍置いて、桐生くんはすぐに答えてくれた。
背中を汗が伝い落ちていく感覚に身震いしそうになるのを、右手で左腕を掴むことで堪える。
きっと、この一言では理解しきれないほどの出来事があったのだろう。
安易に踏み込むことが許されるような関係性でないことは理解していて、それでも、冷たい喉から声が出ていく。
「怪我って、どこを……」
「肩。日常生活に支障はないし、今は平気」
「本当に? ちゃんと診てもらってる?」
一定の距離を保って歩いていたのに、その均衡を破ってわたしが詰め寄ったからか、桐生くんは怪訝な顔で立ち止まる。
「監督のお墨付きの医院で今も経過は診てもらってるから、大丈夫だよ」
「そ、っか。……ごめんね、なんか、お節介で」
聞くだけ聞いておいて、謝ることしかできないのなら、お節介以下だ。
左腕を掴む手に力を込めていると、桐生くんの視線がそこに注がれる。
「勘違いだったら、ごめん。福澄さんももしかして」
今、この瞬間以外、そんな素振りは見せていないはずだった。
今朝から痛みがひどくて、そういうときは無意識で左腕に手を添えてしまう。
桐生くんに向けて左腕を伸ばす。
頼りなく、垂れ下がった腕。
肘から先の手首との境界辺りから、しびれるような鈍い痛みが指の半ばまで続いていて、指先は小刻みに震えている。
「わたしも、左腕に、怪我があって」
正確には、怪我の箇所は腕ではないのだけれど、これまで誰にも言ったことのない話を桐生くんに伝えるのは違う気がした。
俯くと同時に、伸ばした手の先を下から掬うように桐生くんに攫われる。
「痛い?」
「少し。だけど、もう慣れたよ」
「慣れても、痛いでしょう」
痛みの感覚に慣れることはあっても、痛みに慣れることなんてない。
でも、その意図を伝えることなんて端から諦めていた。
それを、たったの一言で解いてくれた桐生くんを、息を飲んで見つめる。