この恋がきみをなぞるまで。
「手、繋ごっか」
いやと言われる前に右手を開けようと、鞄を左肩にかけた瞬間のことだった。
ほんの一瞬、昴流が目を大きくした顔だけは見えた。
「芭流姉!⠀だめ!」
ぐっと肩紐を引っ張られて、鞄は簡単に腕をすり抜ける。
中途半端に緩んだ紐が指先に引っかかって、今朝からずっと痺れを湛えていたそこに鋭い痛みが走る。
くちびるを噛み締めながら、昴流の様子を伺い見た。
「あ……」
顔を真っ青にして、自分のエナメルバッグも地面に落とした昴流が胸の前に置いた手を震わせる。
その瞳には見る間に涙が溜まり、瞬きと同時に溢れ出したそれは地面に落ちて、丸い円がいくつも重なって滲んでいく。
「ごめ、ごめんなさい、ごめんなさい、芭流姉」
「昴流。泣かなくていいから。大丈夫。びっくりしただけだよ」
指先から手首に走る痛みは、正直久しぶりの感覚だけれど、こんなことは生活していたらよくある。
その背を撫でてあげたいのに、昴流の瞳はまるで、わたしに怯えているようで。
それでも、くちびるを噛んで昴流の肩に手を伸ばす。
背に回した手をゆっくりと上下すると、段々と昴流の嗚咽は聞こえなくなっていった。
昴流自身も涙を拭って泣き止もうとしていて、その姿を見ていると、どうしようもなく胸が締め付けられる。
「芭流姉は、どうして……手が痛いの?」
「え……?」
「どうして、ずっと治らないの?」
目元を赤く腫らした無垢な瞳に見つめられて、逃れたい、と思った。
いつの間に、そんな疑問を抱くほど大きくなったのだろう。
昴流がやたらとわたしの腕を気遣うようになってから、いつか話す日が来るのかもしれないと考えてはいた。
何を言ったって、過ぎた過去のことだ。
わたしが話さなければ、他の誰も昴流に伝えはしない。
わざわざ巻き込む必要なんてどこにもない。
口を噤んで、逡巡した後に、昴流の聞きたいことにだけは答える。
「わたしが昴流と同じ年のころに事故に遭ったんだ」
事故、だったとわたしが決めた出来事。
一度目を閉じて、それから昴流を見つめた。
「それが今も少しだけ、痛いんだ」
回復の見込みを信じて、一時期はリハビリを続けていた。
手術は受けずに保存療法に専念し、拘縮にはより気を遣いながら、慣れない生活を日和さんに支えられてきた。
利き手の矯正を本格化することもなって、あの頃はしばしば癇癪を起こしていたらしい。
「芭流姉、左利きだったの?」
たまに眉間に深く皺を寄せながら話を聞いていた昴流が気にとめたのは、利き手のこと。
「そうだよ。左はもう、字も下手になってるだろうけど」
「そんなことないよ。……たぶん。おれ、芭流姉の字が好きだし。左で書くのもきっと上手だと思う」
「そうかなあ」
怪我で利き手の矯正を余儀なくされる前から、少しづつ練習をさせられていたこともあって、実際右手に慣れるまでにかかった時間はさほど長くない。
左手で、何かをしていたころの感覚なんて、もう残っていなかった。