この恋がきみをなぞるまで。
「なんだこれ」
「……なに?」
「とぼけんな。なんだこの手」
掴んでいた手首から指先が解けたかと思うと、手の甲を支えにいく。
無骨な手からは想像もできないほど柔らかい手つきで、掬うように包まれた。
答えずにいると、城坂くんは反対の手首を捕まえて無遠慮に引っ張り、黒板の前にわたしを立たせた。
何をする気なのかわからない城坂くんを見上げると、チョークを左手に持たされる。
確かに、城坂くんにとってはこれが一番わかりやすい方法なのだろう。
チョークだろうが、ペンだろうが、何だろうが、物を持つことと落とすことは通になっているのに。
こんな手に、何が書けるか、なんて。
持ち上げた腕に鳴りを潜めていた痛みがぶり返して、黒板に届く前にチョークを落とした。
それを右手で拾い上げて、今度こそ文字を書こうとすると割って入った手に止められる。
「左利きだったろ」
「矯正したの。今は右利き」
「おまえがいなくなるまでは左だった。全く書けなくなるわけない」
「書けないよ!」
もうきっと、わかっているはずなのに。
チョークを叩きつけて声を荒らげても、城坂くんは表情ひとつ変えずに欠けたそれを拾い上げる。
「書けるよ」
今度は左手にチョークを持たせたあと、右手で覆われる。
左手に右手を重ねているから、不格好で、動かしにくくて。
それでもやっと、チョークの先が黒板に触れる。
「芭流、何を書く?」
「……と」
「なに?」
「ちさと……」
ふっと耳元で城坂くんが笑った。
吐息が頬に触れるような近さで、面白いのか、楽しいのか、嬉しいのか、わからないような笑い方。
『千里』
たった2文字、されど2文字。
揺れていて、曲がっていて、突き抜けていて、足りなくて。
そんな文字だけれど、わたしがずっと、いちばんすきな名前。