この恋がきみをなぞるまで。
『憧憬』
◇
土曜日、昨日の放課後に返すつもりだった辞書を友人の家に届けに来た。
約束をしていない休日で、渡したらすぐに帰るつもりだったのだけれど、辞書を差し出した手とは逆の手首をつかまれる。
「なに? これ」
「いや、あの……ちょっと、擦った……?」
城坂くんの爪で、とは言えずにしどろもどろに誤魔化す。
手の甲の傷は蚯蚓脹れになっていて、今朝も赤みが引いていなかった。
「どう擦ったらこんな傷になるのよ。誰?」
「わたしの不注意だから、平気だよ」
つかむ力が弱った隙に手を引き抜いて、後ろに隠す。
友人──柚木涼花は怪訝そうな顔でわたしの顔をじいっと覗き込む。
「クラスが離れたからって遠慮しなくていいから。何かされたらすぐに言いなよ」
誰に、とは言わず、涼花はぐっとわたしの肩に置いた手に力を込める。
涼花とは去年同じクラスで、城坂くんとは中学校で面識があるらしい。
何となく、わたしと城坂くんに確執があることを察しているようで、それとなく庇ってくれていた。
「ありがとう、涼花。また学校でね」
上手に隠すこともできないくせに、何も説明かできない心苦しさで無理に笑みを作る。
涼花はもう一度念押しして、玄関先から見送ってくれた。
帽子をかぶり直して、今日はもうひとつ目的があることを思い出す。
けたたましく鳴くセミも、アスファルトの焼ける臭いも、足元から意識を拐おうとする熱も、煩わしくて仕方がない。
わたしが一度この町を去ったのも、こんな暑い日だった。
記憶の奥底で錆び付いていた思い出の道を辿る。
懐かしい景色が、大差ない現在の風景と重なって境界を溶かす。
所々に寂しげな空き地を残す住宅街を抜け、沿道を歩いて行くと、小さな小川に出る。
向こう岸では、小学生の子どもたちが遊んでいた。
苔の生えた段差を下り、水面に近い段に座る。
水面に手のひらを押し付けると、一瞬境目を感じて、すぐに飲み込まれていった。
手のひらの熱が拐われていく。
気持ちがよくて目を伏せていると、ポケットに入れた携帯が震えた。
着信相手の名前は予想通り。
「もしもし?」
『あ、芭流。用事は終わった?⠀昴流の迎えに行ってほしいんだけど、どう?』
「17時だよね?⠀それなら行けるよ」
『そうそう。じゃあ、お願いね』
早口で告げると、わたしの返事を待たずに通話が切断される。
きっと仕事が忙しいのだろう。
用事を済ませてからでも昴流の迎えには間に合う。
水に浸していた手を払って立ち上がり、目的の場所へ急いだ。