この恋がきみをなぞるまで。
何年も、芭流のことが忘れられなかった。
でも俺はそれが、いつも、ずっと苦しくて。
本気で忘れたかった。
思い出ごと、後悔も、福澄芭流という人間のことも。
書道は続けるつもりでいた。
きっかけは芭流と芭流の母親に誘われたことだったけれど、この辺りに住む子どもは何人か教室に通っていたから。
書くのは好きだったし、難解な文字を読めるようになって、それを知るまではめちゃくちゃな羅列に見えたものですら、美しく思えた。
自分には書道しかないと気付いて、他のものを知りたくて高校は普通科を選んだ。
結局選択授業は書道を選んだし、転科を考えたこともあった。
書道教室で習うことと、学校の授業で学べることはちがうから、そういう知識がほしいと思って、でも、やめた。
書道科に知り合いはできて、教科書を見せてもらったりはしていたけれど。
進路も、恵美さんにはああ言ったけれど、実は先生には報告ではなくて相談をしていた。
書道は好きだけれど、それだけで先生のような人を目指していいのか、迷っていたから。
それに、たぶん俺は、好き勝手にやっているうちはいいけれど、周りにも書道をしている人間がいたら、色々と見たくないものにばかり目を向けてしまいそうだった。
それをそのまま先生に伝えたら、先生は咳き込みながら大笑いして。
そんな風に笑うところは見たことがなかったから呆気にとられていると、先生は笑い止んでから言った。
「おまえは勝手で奔放で、人一倍負けず嫌いだものな」
「いや、先生それ、軽く悪口じゃないか」
「芭流みたいな子がそばにいる方が、千里は大人しく、伸び伸びと書けるんだろうが……少しくらい、窮屈も逆境も、思い通りいかない感覚も、知った方がいい」
「知ってるつもりなんだけど、わりと、本気で。先生とか、おじさんにも一生かけても敵わないと思うし」
打ちひしがれる感覚が、少し怖いことも、たぶん先生は見越していた。
思い通りにいかないことなんて常にあるし、窮屈とかは、程度によるんだろうけれど、嫌になったら逃げ場なんてないし。
高校3年生にもなって、と言われそうで、他の誰にも言えなかったことを先生の前では口にした。
自然と、言葉が出ていく。
どんな風に受け止められて、答えられても、先生の言うことが人を傷付けるものではないと知っているから。
いつか、長く生きていたら、言葉が棘を持つことが一切ない人間になれるだろうか。
そのとき、傍らにいる人は、傷だらけではないだろうか。
「まあ、千里には芭流がいるから、それで十分だろう」
「……芭流とは、そんなんじゃないんだ」
「芭流には、言ってないけどな、おまえたち、大概似たようなことを考えてるぞ」
「なあ、先生」
芭流の気持ちも、何となく、気付いてはいる。
ただそれを口にすることはないだろうし、俺自身、受け止められる気がしない。
立場が逆転したとして、俺も同じことを言うだろうと思うから、やっぱり先生の言う通りなのだろうな。