この恋がきみをなぞるまで。
芭流の名前がいちばん好きだと思う。
芭と書いて『はな』と読むことを知って、漢字や言葉に興味を持ったし、きっかけはいつも、芭流だ。
誰かが書いた『福づみ はる』なんてふざけた文字を直したのも、今、こうして書いたばかりの文字も。
筆を置いて、両手を合わせた。
この紙面に差し出せるものを、俺は何も持っていない。
魂だとか、思いだとか、そんな大層なものはなくて。
捧げられるのは、この一瞬だけだと思う。
音も、気配も、周りの風景も消え去るほどの集中から戻ってくるのには少し時間がかかる。
感覚的な話なのだけれど、深い集中は、潜りすぎると帰る場所を見失いそうになる。
町が生きる音、近くの部屋に感じる人の気配、見慣れた和室。
それらが戻ってきてはじめて、息ができる。
『芭流』と書いた半紙の横に、俺の名前の入った桐箱と、『芭』の掘られた筆を置く。
ここに置いていくのがいちばんいい気がした。
これで、芭流にはきっと伝わってしまうだろう。
芭流がこれを見つけたら、どうするだろうか。
今度はあの手紙と入れ違いに、何年も先に届くかもしれない。
それでいい、ともう一度だけ目を閉じて、手を合わせた。
まさか、恵美さんがすぐあとに連絡をして、それを見た芭流が追いかけてくるなんて、予想もしていなかった。