この恋がきみをなぞるまで。
そんなことを話していると、芭流のマンションの近くに来ていた。
半分忘れかけていたフラワーフェスタの話も、また連絡すると話してエントランスで別れる。
ずっと、考えていたことがあって。
でもそれは、もしかしたら全く見当違いなことかもしれないから、言えなかった。
何度も逃したチャンスをまた見送る前に。
芭流が背中を向ける前に、呼び止めた。
「千里……?」
「もう一度、芭流にも書いてほしいと思ってる」
「書かないよ、決めたの」
書道教室に顔を出すことはたまにあったのに、芭流は促されても一度も筆を持つことはなかった。
右手で書いたっていいはずなのに、ただの一度も。
右とか、左とか、たぶんずっとこだわっていても仕方のないことだと思うのだけれど、芭流にとってのその線引きが大切なら、尊重したかった。
芭流と、俺に、ひとつだけ残っていた、ずっと大切にしていたものを、そのまま思い出に置き去りにされるのは、少しだけ寂しい。
そう伝えると、芭流は泣き笑いのような顔をして、それから、マフラーに顔を埋めた。
「楽しく、ないと思うの」
「楽しい?」
「楽しく書きましょうなんて、小学生じゃないんだから、言わないけど。でも、こんな気持ちで向き合うものじゃないとも思う。たぶん怖くはない。でも、思い出が綺麗な分、そのままにしておきたい」
芭流の言うことは、わかるようで、理解しがたかった。
どのみち、嫌だと言うのなら無理には連れて行けない。
今じゃなくていいんだ。
いつか、芭流がそう望んだときでいい。
「じゃあさ、芭流。好きな文字、教えてほしい」
「好きな文字なんて、ひとつしかないけど……」
困ったように笑う芭流に、そういうことじゃないと伝えるのは、野暮かもしれない。
色とか、言葉とか、何でもいい。
何かが、きっかけになって。
やっぱり、芭流にも書いてほしいから。
「いいよ、じゃあ。芭流と千里で」
「それ、他の誰が見てもわからないよ」
「俺と芭流にだけ、伝わればいい」
想いを込めて、たとえばそれを文字にしたとしたら。
互いの名前になるなんてのは、何だか小っ恥ずかしいけれど、俺と芭流らしいと思う。
この、想いが。
この恋が、きみの名前をふちどって、色を満たして。
【この恋がきみをなぞるまで。】