素直になれない私たち
あの夏
中学3年の5月、私は翔平と出会った。
同じクラスのマコちゃんが野球部の矢野くんを好きになり、時々付き合いで
練習を見に行くようになった。
『一人じゃ行けないから付き合って』という割にはさっそく私をおいて行動を
開始するあたり、マコちゃんは立派な肉食女子だ。
ノックを受けている部員の様子をグラウンドの外に置かれたベンチに座って
眺めていると、快足を飛ばしてベースを駆け回る人がいて、思わず目で追って
しまった。最後はホームでヘッドスライディングをして土埃が舞い上がった。
しばらくすると中から泥だらけのユニフォームを着たその人がひとりグラウ
ンドの外に出てきて、腕まくりをすると右肘のあたりを水道の水で洗い始めた。
時々顔をしかめるのを見て、肘を擦りむいて出血しているところを水で流して
いることに気づいた。
「これ、よかったら使って」
ちょうど1枚だけ持っていた絆創膏を差し出すと、一瞬驚いたような顔をした
その人は水道の水を止めて絆創膏を受け取り、ありがとう、といった。
そしてベンチに戻ろうとした私を呼び止めた。
「あの、これ貼ってもらってもいい?」
自分で上手く貼れそうにないから、といって彼が差し出した絆創膏を
もう一度受け取り、私は彼の右肘にそれを貼ると、両端のテープの部分を
軽く押さえてから手を離した。
「はい、OK」
彼は自分の右肘を目で確認すると、もう一度ありがとう、といって
グラウンドへ戻っていった。
その後単独行動から戻ってきたマコちゃんに、彼の名前が水上翔平だと
いうことと、今グラウンドに練習を見に来ている女子のうち3割くらいが
水上目当てらしい、ということを聞いた。どちらかというと女子と一緒に
いるイメージはなく、口数が多いタイプでもないから、グラウンドを取り
囲む女子も遠巻きに見ているだけで声をかける子はあまりいないんだって、
それと野球部で一番足が速いらしいよ、と一体どこから仕入れてきたのか
マコちゃんが楽しそうに話してくれた。
この頃は水上ファンのことを考えると余計なことをしてしまったかな、と
思ったくらいで、この後あんなに仲良くなるとはまだ思っていなかった。