新そよ風に乗って 〜夢先案内人〜

「戻りました」
「お帰りなさい」
13時からの経理部長の話を聞きに会議室に慌てて向かった彼女だったが、終わって席に戻ってきた時にはもう落ち着いているかと思いきや、振り返った俺の目には、席に着いた彼女は座っているのがやっとといった体で、唇を震わせながら必死に涙を堪えているようにしか見えず、ギュッと膝の上で両手を組んで一点を見つめているのが、ちょうど立っていた俺からも見て取れ、見かねた中原が、俺の方を見て目で訴えていた。
「矢島さん。机の上の請求書の縦計入れて貰えるかな?空欄の合計金額のところに鉛筆で記入しちゃって構わないから」
「はい……」
振り絞るような声で返事をした彼女は、一瞬だけ俺と目を合わせたが、すぐに書類をジッと見ると電卓をその横に置いて計算を始めたので、タイミングを見計らって、コピーをしに行くついでに中原に首を左に傾けて無言で合図をし、中原もそれに気づき席を立った。
「どうした?」
「それが……」
コピーをしながら中原の話を聞くと、その内容は何てことないように見えて、ひょっとして、少し根が深い難しい問題なのではないだろうかと思えてならなかった。
中原の話によると、彼女が社食で中原と同じ定食を頼んで、トレーを持って会計に向かったところ、バッグの中を懸命に探したが財布が見つからず、家に財布を忘れてしまった気づき、その間、後に長い列が出来てしまって苦情が聞こえてきたので、その場は中原が代わりに代金を支払ったらしいのだが、席について、さぁ食べよう、という段階になったのに、一向に彼女は箸をつけないで黙って座ったままだったという。見かねた中原が、どうしたのか? と問い掛けたが、彼女はひと言、「いつもそうなんです。駄目なんです、私……」と言うと、一筋の涙が頬を伝っていたそうだ。それでも中原は、気を取り直して食べようと声を掛けたところ、やっと一口だけ箸を付けてくれたのでホッとして食べ始めたのだが、そこに運悪く通りかかった煩型の先輩社員の目に止まり、食べ始めた彼女を指さしながら、あぁでもない、こうでもないと、散々、興味本位と憶測でしか物事を判断出来ない典型といった低俗な内容の語彙を吐き出し、去っていったんだとか……。
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