新そよ風に乗って 〜夢先案内人〜

決算の忙しい最中、俺が午前中に席を空けるということが、どれだけのことかを中原はわかっている。そしてそれは俺自身も十分把握していることなのだが、敢えてそれを実行に移そうとしている事態に、中原は少し動揺した表情を見せていたが、すぐに頭を切り換えたのか納得した表情に変わり、俺の言った事を整理するかのように頷きながら返事をしていた。
「はい。わかりました。すぐに、矢島さんに連絡しておきます」
「頼んだぞ。それと……。もし、何処からか連絡が入ったら、午前中は経理上のことで外出していると言ってくれ。内容は聞いていないので、戻ったら連絡しますと」
「はい」
「悪いな。よろしく頼む」
事務所を出てエレベーターを待ちながら、ふと、昨日の彼女の言動を思い出していた。
中原と社食で交わした会話の一部、「いつもそうなんです。駄目なんです……」と、言った時の彼女の心情は、どういうものだったのだろう。そして、俺とコピー機の前で交わした会話……。
「矢島さん」「は、はい」「矢島さんもわからないのなら、わからないとハッキリ意思表示をして、中原や俺だけではなく、そこら辺に居る人、誰でもいいから掴まえて聞かないと。周りにいる人達は全員、君の味方だから。聞く事は、恥ずかしいことでもなんでもない。聞かずに物事を進めるほうが危険であるし、それは秩序を乱すことにもなる。ここは新人の特権で、何でも聞くこと。わかったかな?」「はい。すみませんでした」と、そう交わした会話が、恐らく昨日の彼女との直接的な会話の最後だったと思う。
何がどうして、二日目にして出社したくなくなったのか?自分から入りたいと思って入社希望を出したのではなかったのか? だとしたら何故、簡単に続けていく自信がないなどと結論付けてしまうのだろう。その根底にあるものは、いったい……。
鉄は熱いうちに打て。アウト・オブ・コントロールになってからでは遅い。そうなってからでは遅いのだ。俺のように、面倒な人間になってもらいたくはない。フッ……。面倒な人間か。自己分析出来るほど、そんな余裕もあるとはまだ思えないが……。
最寄り駅に着き、携帯電話のナビゲーション・システムに彼女の家の住所を入れて検索を始め、徒歩圏内で行かれることがわかり、目的地の印に向かって携帯電話の画面を時折見ながら歩いていた。
駅から少し離れると、とても閑静な住宅街が立ち並び、平日の午前中ということもあって、ベランダに干された洗濯物が春風に揺れているのが、あちらこちらから視界に入ってくる。ここら辺だな……。住居表示と建物の名称を照らし合わせ、インターホンを押そうとした時、ちょうど携帯電話がポケットの中で振動し始めた。
グッド・タイミングか?
< 161 / 181 >

この作品をシェア

pagetop