新そよ風に乗って 〜夢先案内人〜

「もう、やめよう」
エッ……。
吐き出された言葉を、決して視線を逸らさず受け止めていた貴博さんの口から言葉が発せられ、途端に言葉を切った私の頬に貴博さんの左手が触れた。
「泣かなくていい」
「あっ……」
気づかないうちに泣いていたらしく、貴博さんが涙を拭ってくれていた。
「俺なんかのために、涙なんて流さなくていいから」
「貴博さん、待って! 貴博さん」
しかし、私の呼び止める声には振り向いてはくれず貴博さんは車に乗ってしまい、急いで運転席の横に立って何度も貴博さんの名前を呼ぶと、車のエンジンを掛けながら貴博さんが窓を開けた。
「ごめんなさい。貴博さん、私……」
「ミサと食事に行ったことは、君も知っているとおりで事実だ。しかし、ミサに指名されたから今日の仕事を引き受けたわけじゃない。今日、ミサが来る事は俺は知らなかった。仮に、もし仕事を引き受けてからミサが来ると知ったとしても、俺は断らなかったと思う。何故なら、それは仕事だから。ただそれだけの事だよ」
「貴博さん……」
「それじゃ」
「貴博さん、待って」
右手を突っ込んで、パワーウィンドウを閉めかけた貴博さんの車のハンドルを、咄嗟に掴んでいた。それを見た貴博さんが、驚いた表情でパワーウィンドウを閉めるのを止めた。
「危ないから、離してくれないか」
貴博さんが視線を前方に向けたまま、私の右手を左手で掴んでハンドルから離そうとしていた。
「嫌っ。貴博さん。もう、私の心まで一人にしないで!」
貴博さんに、夢中でぶつけていた自分の気持ち。すると、前方を向いていた貴博さんの視線が、ゆっくりと動いて私を捉えていた。
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