新そよ風に乗って 〜夢先案内人〜

そういう事って何?昼間、貴博さんとミサさんの間で何が話されていたのだろう。そういう事って……。
「貴博がランチも食べずに話だけ聞くと言って頑なに拒んだ理由は、こういう事だったのね」
貴博さん。貴博さん、まさかランチを食べずにミサさんと話をしていたの?それなのに、あんな酷い事を言ってしまった。それでも貴博さんは、何も言わずに……。
「貴博さん、私……」
「黙ってて」
うっ。
まるで鹿威しが満水になって竹筒が跳ね上がり、竹筒の尻が勢いよく地表の石を叩いた音のような研ぎ澄まされたミサさんの声が辺りに響き渡って、その圧倒されるようなオーラと威圧感に身体が硬直して無意識に息を止めてしまっている。車のドア越しに立っていた私を手で押すでもなくただ横に立っただけで後ろに下がらせてしまったミサさんに、すでに気迫で負けていた。ミサさんは、貴博さんに何を望んでいるのだろう。朝からずっと気になっていたが、何も見えて来ない自分の洞察力のなさを恨めしく思う。
「貴博。貴方も、やっぱり何だかんだいっても男なのね。遊びだか本気だか知らないけど、人の恋路を邪魔するつもりは毛頭ないから安心して。でも、あの事だけは忘れないで頂戴」
「わかってる」
あの事? あの事だけは忘れないでって、何の事だろう。貴博さんもすぐに返事をしているって事は、心得てるって事で……。
「それならいいの。それなら……」
貴博さんに営業スマイルのような微笑みを向けると、こちらを向いて私の横を通り過ぎようとしたが、一瞬立ち止まって私の右肩に手を置いた。
「貴博を、本気にさせるのは大変よ」
「あの……」
言い掛けた私に何か言いたいのとでもいった体で、小首を傾げながら余裕の表情をミサさんは浮かべていた。
「ご忠告、ありがとうございます」
精一杯の反抗と嫌味のつもりだった。業界では先輩でも、一個人としての私の存在まで否定されたくはない。
「ご忠告? そう捉えた貴女も強者ね。もう貴博に洗脳でもされた? 自分らしくあれとでも言われて。ホホッ……。でも貴博の心までは、いくら賢人の貴女でも掴めるとは限らないわよ。その自信はいずれ仇となるから捨てた方がいいわ」
「……」
一を言ったら、百返された……。自分の未熟さと言い返せない意気地のなさに、情けなくなる。言い返せないのは、これから先の仕事の事を考えて守りに入ってしまっているからだろう。そこまで貴博さんにのめり込めない、自分の歯痒さ。命賭けとまではいかなくとも、せめて貴博さんを想う気持ちだけはミサさんに負けたくないと考えはおこがましいだろうか。貴博さんに告白された訳でもなく、自分から好きですと言っただけで……。あぁ。沖縄の浜辺で夕陽をバックにキスをした夏のあの日から季節はもう晩秋に近づいているというのに、まだつい昨日の事のように思い出しただけで心臓が高鳴る。貴博さんは、覚えていてくれているだろうか。あの日、あの浜辺でキスをしたことを。
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