記憶がありませんが、身体が覚えているのでなんとかなりそうです
14.あの時の記憶
「それで身体の調子はどうだい?」
「特に不調は感じないけど……」
「どうしたの? 僕の顔に何か付いてる?」
「ううん、お父様は変わらないなと思って」
そういうと父は一瞬だけ目を瞠ってから、目尻を下げて微笑んだ。笑うと確かに目元の皺が増えた気がする。それでも八年も経っているとは思えなかった。
「……まぁ、人間っていうのはさ、人生の大半はおじさんで過ごすからね。ある程度の間は見た目なんてそうそう変わらないものだよ」
しょんぼりと肩を落とす父に構うことなく辺りを見渡せば、魔術師団の団長室は見慣れたものだった。
壁一面の本棚は穴開きだらけで、床や至る所に積まれた本のあるべき場所なのだろう。いつからか積まれているのか分からない証拠に、薄っすらと埃が積もっている。
「お父様だけじゃなくて、ここも変わってないわ」
乱雑に積まれた本は、しかし本人的には分かるようになっているから、むやみに片付けないようにというのは仲間内では有名な話。それは自宅の書斎でも同じだった。唯一母だけが率先して片付けることを許されていた……と、いうより有無を言わせなかったともいえる。だからあまりにも団長室の足の踏み場がなくなってしまうと、母に来てもらうように団員たちが泣き付いてくるのだ。
ちょうどもうすぐ母が呼ばれるだろう、そんな具合に本や紙などが散乱している部屋。それは私が目を覚ましてから見た中で、一番変わっていなくて落ち着けるものだった。だからといって母にはすぐにでも来てもらいたいが。
「そりゃあそうだろう。ここは八年どころか二十年くらいはこのままだよ」
「えっ! ……いやいや、それってどうなの!?」
驚く私をよそに、アハハと笑いながら、父は少し掻き混ぜるようにして頭を撫でてきた。それは彼の昔からの癖で。髪型が崩れる! と私が怒り出すまでがセットだ。部屋や見た目だけでなく、仕草まで変わらない父自身に嬉しくなる。
「心配をおかけしました」
けれど無性に切なくて、悲しくて、申し訳なかった。思いのまま言葉にすると、殊勝な態度に驚いたらしい。私の心情を察してくれたのか、次に父は髪を梳くように撫でた。
「確かに心配したけれど、僕とエリックが傍についているからね。そうそう大事になることはない」
それは父なりの慰めの言葉なのだろう。本当は沢山心配をかけてしまったはずだ。
「ありがとうございます」
色んな思いをこめてそう言えば、うんうんと嬉しそうに頷いてくれた。
「それよりもエリックと結婚していて驚いただろう? ラリアはあれだけライバル視していたんだから」
「そりゃあもう、少しの間これは夢なんだと思ってたくらいには」
「私としてもまだまだ家にいて欲しかったから、もっと粘りたかったのだが……。この男は本当にしつこくてね」
「お義父様!」
溜め息交じりの父の呟きに対し、エリックは声を上げた。
――そうか、今となってはエリックにとっても父なのだ。頭では分かっていたけれど、それはとても不思議な感覚である。二人の視線上に一瞬だけ火花が散ったような気がしたのはさて置き……。
「見慣れない屋敷では不安だろう? いつでもうちに帰ってきてもいいんだよ? お母さんも喜ぶだろう」
「ちょっと待ってください! いいですか? ラリアを帰すつもりはありませんので!」
慌てるエリックが可笑しくて父と二人で笑う。そんな彼が見られるのは私や家族など限られた前でのみ。普段なんでも卒なくこなし冷静沈着なエリックだが、色んな意味で父に小さい頃から可愛がられてきたのである。
「サリィも付いてきてくれてたし、全く知らない屋敷ではないから。エリックも優しいし、ね」
「そう……?」
「……ラリアっ」
一転、面白くなさそうな父と喜色満面のエリックを交互に見て笑う。結婚するときはどうだったのかな、なんて覚えてもいないことを思ったりして。どちらかに聞けば誇張しそうだから、今度母にでも聞いてみよう。そう思うことで寂しさに蓋をした。
「して、エリック。記憶に異常をきたすなんて、流した魔力に不備でもあったのかな?」
先ほどの父の顔から一転、魔術師としての表情に切り替わる。ここからが本題だ。結局あれから食事の時間や夜に時間を見つけては、エリックと魔力を流してみたり調合した薬を服用してみたけれど、記憶は戻らないまま。
エリックがいち早く父に相談してくれたものの、多忙な魔術師団長ゆえに漸く会うことが叶ったのである。
「やはりそこですよね……。記憶が十六歳のままなのもそれが原因かと思ってしまいます」
「しかしラリアならさておき、エリックが間違えるはずがないよね」
父の何気ない言葉を理解してムッとするが、言い返せない事柄が今まで多々あったのは否めない。娘を取られた件については複雑らしいけれど、父はエリックのことを昔から高く評価している。
「まぁまぁ、それはそれ、これはこれだよ」
秘かに唇を尖らせた私を宥めながらも、父は小さく詠唱し始めた。私の額の上に手を翳すと、掌から光が放出されて視界がピンク色に染まり目を閉じる。じんわりと脳内が温かくなる。
「……確かに機能に異常は見られないが、分かりづらい場所にうっすらと空洞が感じられるな」
父の言葉にエリックが、ほうと感心の溜息をもらす。エリックですら何度か私を調べてくれたにも関わらず、異常が見つけられなかったというのに。流石としか言いようがない。
翳していない方の手を顎に置いて目を瞑っていた父は、何かに気付いたかのように目を開けるとそのまま私を見た。
「んー、これは……。待てよ。ラリアは目が覚めるまで意識はなかったのかな?」
「意識……?」
「身体は動かずとも聴覚や感触、思考はどうだった? 例えば……」
「夢を見ているみたいな?」
「そう、それだ」
確かに目が覚める前から、私は今の私だったように思う。朧気ではあるけれど。
「あったわ。でもその時には既に私は十六歳の認識だったの」
「ふむ。何かその時に違和感を覚えなかった? 痛いとか、苦しいとか」
そう言われ、目覚める前のことを思い出す。見ていたはずの夢がどんな内容だったか、起きて暫くすると思い出せないように詳細には覚えていない。けれど感覚は記憶にあった。
「あまり覚えてはいないけれど、寒さなどの感覚はないのに、真っ暗な沼に嵌ったかのようで藻掻いた記憶があって、エリックの気配を感じていた気が……」
「なるほど。医療スライムの治験結果でも似たような報告がある。術者のエリックの気配がするのは当然だし、正しく作用していたようだね」
「あ……」
医療スライム、その言葉にピンとくる。これは、もしかしたら……。私がしでかしてしまったのかもしれない。なんとか打破したくて足掻いた記憶が蘇る。心地よさに身を委ねたかったものの、エリックの気配が悔しくて抗ったのだ。
多分、いや、絶対普通の人ならしないはずの抵抗。そして突破。言い訳をするならば治療されていると分かれば抵抗なんてしなかった……と、思う。けれどあの全身がエリックに包まれている状態はあまりにも落ち着かなかったから、遅かれ早かれこうなっていただろうとは予想できるけど……。
背中に冷たい汗が流れるのを感じた。あれがまずかったのかしら。……というかそれしか考えられない。
「ラリア?」
「何か身に覚えがあるんだな?」
ハッと我に返ると血のつながっていないはずの親子が、にっこりと、されど似たような冷えた微笑みで迫っていた。
「特に不調は感じないけど……」
「どうしたの? 僕の顔に何か付いてる?」
「ううん、お父様は変わらないなと思って」
そういうと父は一瞬だけ目を瞠ってから、目尻を下げて微笑んだ。笑うと確かに目元の皺が増えた気がする。それでも八年も経っているとは思えなかった。
「……まぁ、人間っていうのはさ、人生の大半はおじさんで過ごすからね。ある程度の間は見た目なんてそうそう変わらないものだよ」
しょんぼりと肩を落とす父に構うことなく辺りを見渡せば、魔術師団の団長室は見慣れたものだった。
壁一面の本棚は穴開きだらけで、床や至る所に積まれた本のあるべき場所なのだろう。いつからか積まれているのか分からない証拠に、薄っすらと埃が積もっている。
「お父様だけじゃなくて、ここも変わってないわ」
乱雑に積まれた本は、しかし本人的には分かるようになっているから、むやみに片付けないようにというのは仲間内では有名な話。それは自宅の書斎でも同じだった。唯一母だけが率先して片付けることを許されていた……と、いうより有無を言わせなかったともいえる。だからあまりにも団長室の足の踏み場がなくなってしまうと、母に来てもらうように団員たちが泣き付いてくるのだ。
ちょうどもうすぐ母が呼ばれるだろう、そんな具合に本や紙などが散乱している部屋。それは私が目を覚ましてから見た中で、一番変わっていなくて落ち着けるものだった。だからといって母にはすぐにでも来てもらいたいが。
「そりゃあそうだろう。ここは八年どころか二十年くらいはこのままだよ」
「えっ! ……いやいや、それってどうなの!?」
驚く私をよそに、アハハと笑いながら、父は少し掻き混ぜるようにして頭を撫でてきた。それは彼の昔からの癖で。髪型が崩れる! と私が怒り出すまでがセットだ。部屋や見た目だけでなく、仕草まで変わらない父自身に嬉しくなる。
「心配をおかけしました」
けれど無性に切なくて、悲しくて、申し訳なかった。思いのまま言葉にすると、殊勝な態度に驚いたらしい。私の心情を察してくれたのか、次に父は髪を梳くように撫でた。
「確かに心配したけれど、僕とエリックが傍についているからね。そうそう大事になることはない」
それは父なりの慰めの言葉なのだろう。本当は沢山心配をかけてしまったはずだ。
「ありがとうございます」
色んな思いをこめてそう言えば、うんうんと嬉しそうに頷いてくれた。
「それよりもエリックと結婚していて驚いただろう? ラリアはあれだけライバル視していたんだから」
「そりゃあもう、少しの間これは夢なんだと思ってたくらいには」
「私としてもまだまだ家にいて欲しかったから、もっと粘りたかったのだが……。この男は本当にしつこくてね」
「お義父様!」
溜め息交じりの父の呟きに対し、エリックは声を上げた。
――そうか、今となってはエリックにとっても父なのだ。頭では分かっていたけれど、それはとても不思議な感覚である。二人の視線上に一瞬だけ火花が散ったような気がしたのはさて置き……。
「見慣れない屋敷では不安だろう? いつでもうちに帰ってきてもいいんだよ? お母さんも喜ぶだろう」
「ちょっと待ってください! いいですか? ラリアを帰すつもりはありませんので!」
慌てるエリックが可笑しくて父と二人で笑う。そんな彼が見られるのは私や家族など限られた前でのみ。普段なんでも卒なくこなし冷静沈着なエリックだが、色んな意味で父に小さい頃から可愛がられてきたのである。
「サリィも付いてきてくれてたし、全く知らない屋敷ではないから。エリックも優しいし、ね」
「そう……?」
「……ラリアっ」
一転、面白くなさそうな父と喜色満面のエリックを交互に見て笑う。結婚するときはどうだったのかな、なんて覚えてもいないことを思ったりして。どちらかに聞けば誇張しそうだから、今度母にでも聞いてみよう。そう思うことで寂しさに蓋をした。
「して、エリック。記憶に異常をきたすなんて、流した魔力に不備でもあったのかな?」
先ほどの父の顔から一転、魔術師としての表情に切り替わる。ここからが本題だ。結局あれから食事の時間や夜に時間を見つけては、エリックと魔力を流してみたり調合した薬を服用してみたけれど、記憶は戻らないまま。
エリックがいち早く父に相談してくれたものの、多忙な魔術師団長ゆえに漸く会うことが叶ったのである。
「やはりそこですよね……。記憶が十六歳のままなのもそれが原因かと思ってしまいます」
「しかしラリアならさておき、エリックが間違えるはずがないよね」
父の何気ない言葉を理解してムッとするが、言い返せない事柄が今まで多々あったのは否めない。娘を取られた件については複雑らしいけれど、父はエリックのことを昔から高く評価している。
「まぁまぁ、それはそれ、これはこれだよ」
秘かに唇を尖らせた私を宥めながらも、父は小さく詠唱し始めた。私の額の上に手を翳すと、掌から光が放出されて視界がピンク色に染まり目を閉じる。じんわりと脳内が温かくなる。
「……確かに機能に異常は見られないが、分かりづらい場所にうっすらと空洞が感じられるな」
父の言葉にエリックが、ほうと感心の溜息をもらす。エリックですら何度か私を調べてくれたにも関わらず、異常が見つけられなかったというのに。流石としか言いようがない。
翳していない方の手を顎に置いて目を瞑っていた父は、何かに気付いたかのように目を開けるとそのまま私を見た。
「んー、これは……。待てよ。ラリアは目が覚めるまで意識はなかったのかな?」
「意識……?」
「身体は動かずとも聴覚や感触、思考はどうだった? 例えば……」
「夢を見ているみたいな?」
「そう、それだ」
確かに目が覚める前から、私は今の私だったように思う。朧気ではあるけれど。
「あったわ。でもその時には既に私は十六歳の認識だったの」
「ふむ。何かその時に違和感を覚えなかった? 痛いとか、苦しいとか」
そう言われ、目覚める前のことを思い出す。見ていたはずの夢がどんな内容だったか、起きて暫くすると思い出せないように詳細には覚えていない。けれど感覚は記憶にあった。
「あまり覚えてはいないけれど、寒さなどの感覚はないのに、真っ暗な沼に嵌ったかのようで藻掻いた記憶があって、エリックの気配を感じていた気が……」
「なるほど。医療スライムの治験結果でも似たような報告がある。術者のエリックの気配がするのは当然だし、正しく作用していたようだね」
「あ……」
医療スライム、その言葉にピンとくる。これは、もしかしたら……。私がしでかしてしまったのかもしれない。なんとか打破したくて足掻いた記憶が蘇る。心地よさに身を委ねたかったものの、エリックの気配が悔しくて抗ったのだ。
多分、いや、絶対普通の人ならしないはずの抵抗。そして突破。言い訳をするならば治療されていると分かれば抵抗なんてしなかった……と、思う。けれどあの全身がエリックに包まれている状態はあまりにも落ち着かなかったから、遅かれ早かれこうなっていただろうとは予想できるけど……。
背中に冷たい汗が流れるのを感じた。あれがまずかったのかしら。……というかそれしか考えられない。
「ラリア?」
「何か身に覚えがあるんだな?」
ハッと我に返ると血のつながっていないはずの親子が、にっこりと、されど似たような冷えた微笑みで迫っていた。