記憶がありませんが、身体が覚えているのでなんとかなりそうです

2.誰……?

 突破すると意気込んだとしても、この寝ているのか起きているのか分からない状態では、大した魔法は使えないだろう。少し動くようになった指先で、ごくわずかに魔力を練って小さな針を作った。
 地道だけれど、卵から孵化する雛が殻を破るように小さな穴を開け、そこから魔力を流し込んで破壊する作戦だ。そうと決まればこの途方もない時間が暇じゃなくなるし、エリックのことばかり考えることもなくなる、はず。
 
 よしっ! と指先に力を込めて、身体を覆うスライムに針を突き立てた。
 
  * * *
 
 大雑把な性格の私だけれど、地道な努力は嫌いじゃない。
 辞書を片手に毎日少しずつ魔術書を読み解いていくことは好きだし、そもそも魔術の道を目指す者たちは少なからずその傾向がある。無詠唱でドッカン! と派手な魔法を放てる偉大な魔術師も、それに辿り着くには様々な勉強や訓練、忍耐を要するものだ。
 
 初めは弾力のある魔力の層に針で穴を開けるなんて、無謀だったと後悔したりもした。しかし刺したあと、穴を広げるように指先から少し魔力を流せば、ほんの僅かに手応えを感じたのである。そこからは瞼も開かないために、図らずも集中できたことで効果があったのかもしれない。
 
 ――それはある日突然訪れた。実際は今日が何日なのか、一体どれだけの間この状態だったのかなんて分からないけれど。
 
 外側は相当硬くて作業は難航したが、突破した瞬間、全体にピシピシと罅が入った音がした。突然瞼の裏が明るくなって、シーツを剥ぎ取られたような感覚に、長い間覆ってくれていたエリスラは跡形もなく消滅してしまったのだと気付いた。
 
「あ……あ……! だ、誰か! 旦那様を!」
 
 慌てる声には聞き覚えがある。メイドのサリィだ。年も近くて、ずっと私のお世話をしてくれる姉のような存在だもの。ということはここは自室なのだろうか? そしてどうやら父を呼んでくれたらしい。
 
 随分心配を掛けてしまった事態だったのだと、原因は思いつかないものの反省した。
 
 バタバタと騒がしくなる周囲を確認したくて、ゆっくりと瞼を開ける。あまりにも眩しくて、初めは視界一面真っ白だった。何回か瞬きをして慣れてきた頃、ピントが合い天井が見えた。
 
「……ん?」
 
 久しぶりに出した声は随分掠れてしまっていたけど、そんなことよりも!
 
 ここはどこ? いやいや、私が何者かなんて分かっているから。じゃなくて。
 
「え……。ここ、本当にどこ?」
 
 自分の部屋の見慣れた天井ではなかったのだ。ゆっくりと首を動かして辺りを見渡してみる。学園の医務室というよりはどこかの屋敷のようだ。そして大きなベッドに寝かされているらしい。
 
 起き上がってみれば分かるかもしれないと、肘をついてゆっくりと起き上がった。油の切れた機械のように身体はギシギシと軋むが次第になれるだろう。痛みなどは特にない。
 
 上半身を起こし終えたのと、バタバタと近付いてきた足音が部屋の前で止まったのは同時だった。
 
「ラリア!」
 
 名を呼んだその声は、さっきまでずっと覆っていた魔力の主の聞きなれたもので。父が来るかと思っていたけれど、そういえば心配して近くにいてくれたのかもしれないなと思い直す。
 
「エリック、心配かけて……っ」
 
 言いかけた私は言葉を噤んだ。
(えっ? えっ? な、なんで!)
 声にならない声を心で叫ぶ。ギュウギュウとエリックに抱きしめられたから声を出せなかったのだ。
 
 幼馴染だし互いの距離は他の人たちよりも近い自覚はある。私が一方的に羽交い絞めにしたり、後ろから抱き付くことはあったけれど、こんな風にエリックから抱きしめられることなんてなかった。
 
「良かった……。まだ目覚めるのはもう少し先だと思ってたから嬉しい」
 
 突然の抱擁に、ドキドキと心臓がうるさくなる。けれど切羽詰まったような声に、それくらいの事態だったのだと青ざめた。
 
「毎日不安で恐怖に押しつぶされそうだった」
「……心配かけてごめん」
 
 いつもは素直になれないけれど、いつも冷静なエリックの取り乱した様子に謝罪が自然と零れた。
 小さかったが私の声に気付いたらしいエリックが腕の力を緩める。その隙に顔を上げると同時に空気を確保しようとした。
 
「…………む、ぐ」
 が、空気を求めたはずの口元に柔らかな何かが覆い被さる。驚いて見開いた視界にレンズが光る。見慣れたエリックの眼鏡が目の前にあった。
 
(き、キス? え? えーーーー!)
 
 何で? どうしてとパニックになるものの、唇からエリックの魔力が伝わってきて、はたと我に返った。確かに身体を触れ合わせることで、相手の状態を診ることができる。それに魔力が枯渇した相手への譲渡も。
 
 いつかの授業で、先生が一番手っ取り早いのはキスだとおどけて言っていたのを思い出した。私には試しようがなかったけれど。
 
 慣れた様子のエリックは、その方法の経験もあるんだと思い知らされた。今まさに施しを受けているのは私だけれど、一体それを誰と練習したのだろう? 少なくとも私ではない誰かだ。
 
 なんせ私はこれが正真正銘ファーストキスなのだから。
 
 勝手に大人になってしまった幼馴染に胸がツキリと痛む。いつも私と一緒にいるとばかり思っていたのに、ちゃっかりそんな相手を見つけていたなんて。
 
 悲しくて羨ましい。そして今の状況がちっとも嫌じゃなくて寧ろ嬉しい。そんな自分自身の感情に混乱した。
 
「……っは、ごめん。性急すぎた。嬉しくてつい」
 様子のおかしな私に気付いたのだろう。なんせエリックは鋭い。抱きしめる力はそのままに、漸く唇が離された。少しだけ離れた顔を見て、しかし私はさらに混乱することになる。
 
「え……? 誰……?」
 
 そこには私の知るエリックではない、エリックがいたのだ。何を言っているか分からない? うん、私も分からない。
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