記憶がありませんが、身体が覚えているのでなんとかなりそうです
35.この先もなんとかなりそうです
微かな気配を感じて、薄っすらと瞼を上げればエリックが私の隣で横になるところだった。夢の世界に片足を突っ込んだまま、寝ぼけまなこでモゾモゾと動いてその腕の中に潜り込む。再び目を閉じて、エリックの匂いを肺一杯に吸い込めば、安堵の溜め息が漏れた。後頭部や背中を優しく撫でられて、猫のように擦り寄った。
「起こしてしまったか」
「気にしないで。エリック、おかえりなさい」
「ただいま。ああ、やっとラリアに会えた」
「今朝もお見送りしたでしょ?」
「そんなので足りるとでも? できることなら常に触れ合っていたいくらいなのに。ああ、そうだ。そのままでいいから聞いてくれ。遅くともあと一か月くらいで完全に帰ってこれそうだ」
「えっ! そうなの!? 嬉しいけど予定より随分と早いね?」
「俺は優秀だからな」
得意そうな声から、どんな表情をしているのか簡単に想像できて小さく笑う。
ジェフリー様についてエリックがササルタに渡って五か月ほど。彼は宣言通り毎晩屋敷に帰ってきている。同行しているケイシーからの手紙では、ジェフリー様及び側近の人たちも、毎晩転移魔術で帰るエリックの異常……愛の重さを目の当たりにして、とても引いているとのこと。しかし自他共に認める優秀さゆえ、魔術の研究や開発でかなり貢献しているらしい。早く終わらせて帰るために一切の無駄な時間を省いていて、悪い虫すら近寄れないから安心して、と綴られていた。
「今日は何していた?」
「今朝話した通りだよ。午前中は魔術師団に行って、午後は屋敷で書類整理をしていたわ」
「無理はしないでくれ。護衛も保護もつけているが、何が起こるか分からない。いいか、少しでも変だと思ったらすぐにブレスレットに魔力を込めて……」
もはやこの会話は毎朝晩のルーティンだ。心配性なエリックは、本当は屋敷にいてほしいようだが、気分のいい時くらいは身体を動かしたい。ふわりと全身が温かくなって、恒例の健康チェックが始まったらしい。ここ最近、特にお腹の辺りは念入りだ。
「うん、今日も二人とも問題はないな」
「なんせまだ実感すらないからね。疲れやすいとか、熱っぽいのも慣れちゃったし。あ、そうだ。夕食に少しお肉を食べたけど気持ち悪くならなかったの」
「……! それは良かった! 食べたいものがあれば何でも言ってくれ。無理に食べる必要はないが、体重はまだ気にしなくていいらしいからな」
頭頂部にキスが落とされる。エリックは一体いつそんな知識を蓄えてくるのだろう。妊婦である私なんかよりずっと物知りだ。
――そう、現在私とエリックの子がお腹にいる。ある日、恒例の健康チェックですぐに気付いたエリックは、ひとしきり騒いだあと、今まで以上に過保護になってしまった。判明したのがササルタに出発する直前だったから、行きたくないとごねにごねたのは記憶に新しい。お父様とケイシーに文字通り引き摺られていった。
ここ最近は、妊娠初期だったこともあり夜は健全に寝る日々が続いていた。身体が自分のものじゃないような感覚に、とてもじゃないけれどそういうことをする気になれなかったから初めのうちは気づかなかったが、あれだけ毎晩のように求めてきたエリックからのお誘いがパタリと止んだのだ。
私に触れたくなくなってしまったのだろうか? 気づいてしまったら不安で居ても立っても居られなくなり、その日の晩、すぐに彼に訊ねた。言いやすいようにお互いにリラックスしている眠る直前、エリックに抱き着いたままで。
「どうして、その、突然しなくなったの?あれだけ毎日してたのに……」
「え?……ああ、すまない」
そう返されて身体が強張る。私の様子にエリックが慌てて「いや、違う。ラリアが考えているようなことじゃない」と、背中を撫でた。
「……じゃあ、どういう意味?」
「謝ったのは直接言わなかったことに、だ。今までが今までだから信じられないかもしれないが、辛そうにしているラリアにそんな欲を押し付けるようなことはしないよ」
「そっか、そうだったのね。ありがとう」
「ラリアは何も気にしなくていい。それより確認しておきたいのだが、突然俺から誘わなくなって寂しかったのか?」
う……。今度は違う意味で強張った。頬が羞恥で熱くなる。そりゃあ、触れたくないと思われるよりかはいいけれど。でも……。
「分かったなら、敢えて確かめなくてもいいんじゃない? いじわるね」
「いや、ここははっきりとラリアの口から聞きたい。長い間想いが一方通行だったんだから、ラリアから寄せられる愛に飢えているんだ。いいだろう?」
ツンとした声を出して拒否しても、案の定エリックにはなんの効き目がなく。小さく呻ってほんの少し抵抗を見せるも、今までのことを盾にして乞われてしまえば諦めるしかない。勘違いしていたのが照れくさいから言いたくはないけれど、こういうときのエリックが一歩も引いてくれないことは嫌というほど知っている。
「時々……思い出すことはあっても、エリックと歩んできたここ数年の記憶がないこの私だから、やっぱり嫌になっちゃったのかな、って、寂しくて」
エリックが小さく笑ったのが密着しているから振動で伝わってきた。確かに我ながら幼稚だと思う。だから言いたくなかったんだ……と不貞腐れそうになった途端、
「これも違うからな。あまりにも嬉しくて思わず笑ってしまった」
「どういうことよ」
エリックの首元にぐりぐりと頭を押しつけた。余裕のある彼に対し、相変わらず子供っぽい私だから拗ねたくもなる。なんせ精神的な年齢差を感じずにはいられないから。
「ラリアを抱きたくなくなるなんて、そんなことは天地が引っくり返ってもあり得ないから安心して欲しい。ただ、そう思ってくれるまでになったのが奇跡のようだから、つい」
愛し愛されているのが理解できるからこそ、不安が付き纏っているのも事実。未だに、ふとした瞬間に記憶が蘇ることはあっても、また時間が経つと忘れてしまうのを繰り返していた。それでも時折思い出せることが、今の私もこれまでの私も同じ人間だという証拠だけれど、それでも経験したのにしていない、知っているはずなのに分からないことは多々あって。
「このまま完全に思い出せないままなのかな」
「急にどうした?」
「だって、プロポーズとか婚約した日とか結婚式のこととか、この子に聞かれたら教えてあげられないもの」
「……あまりにも必死でみっともないから、それは思い出さなくていいんじゃないか」
「そんなこと言わないでよ。私がいいと思って今があるんだから自信もって、ね?」
「うん、まぁ、そうかもしれないが。同情心に付け込んだのに自信なんて……」
エリックがらしくなく小さく呟く。ん? と頭にハテナが浮かんだ瞬間、脳内で私に必死にしがみつくエリックが浮かんできた。これは現実か想像のか分からないけどやけにリアルだ。いつの記憶なのだろう? じわじわと訪れてきた眠気に抗うように記憶の糸を辿る。
ああ、そうか。婚約することの利点をあれこれと挙げられて、でもそれは私しか得にならないことばかりで。そんなもののためにエリックの人生を棒に振るのもに悪いから、無理に婚約とかしなくてもいいよ、と一度は断ったんだっけ。そうしたらエリックの方にも利はあると説得されたけど、それでも申し訳なさが消えずに返事を渋っていたからだ。今思えば、ジェフリー様との婚約話があったから必死だったんだと分かるけど。
この数年の記憶がないことが分かったときほどでもないけれど、未だにエリックは随分と余裕のある大人に見えるから、私との差に不安になることもある。だけど私にしがみついて、了承するまで絶対離れないからと暴走しそうになったエリックのことも、私の中のどこかでちゃんと覚えているのだ。
腕の中で落ち着けたからか、再び眠気がやってきて瞼が重くなる。妊娠してからというもの、とにかく眠いのだ。もう爪先どころか腰まで夢の世界に突っ込みながらも、エリックに何か言ってあげなくてはと動かない頭で無理矢理考える。
モゾモゾと擦り上がって、エリックの頬に手を添える。
「……大丈夫、だいじょーぶ。そんなに心配しないで。今の私は覚えてなくっても、エリックとの色んなことは身体が覚えてるからこの先もなんとかなるわ」
そう言いながら、私自身、エリックと一緒に歩んできた二十四年は、きちんと私の中であることを確信して、睡魔に身を任せた。
――数か月後、襲い来る陣痛の波と出産の衝撃で全て思い出すことを、この時はまだ知らない。
完
「起こしてしまったか」
「気にしないで。エリック、おかえりなさい」
「ただいま。ああ、やっとラリアに会えた」
「今朝もお見送りしたでしょ?」
「そんなので足りるとでも? できることなら常に触れ合っていたいくらいなのに。ああ、そうだ。そのままでいいから聞いてくれ。遅くともあと一か月くらいで完全に帰ってこれそうだ」
「えっ! そうなの!? 嬉しいけど予定より随分と早いね?」
「俺は優秀だからな」
得意そうな声から、どんな表情をしているのか簡単に想像できて小さく笑う。
ジェフリー様についてエリックがササルタに渡って五か月ほど。彼は宣言通り毎晩屋敷に帰ってきている。同行しているケイシーからの手紙では、ジェフリー様及び側近の人たちも、毎晩転移魔術で帰るエリックの異常……愛の重さを目の当たりにして、とても引いているとのこと。しかし自他共に認める優秀さゆえ、魔術の研究や開発でかなり貢献しているらしい。早く終わらせて帰るために一切の無駄な時間を省いていて、悪い虫すら近寄れないから安心して、と綴られていた。
「今日は何していた?」
「今朝話した通りだよ。午前中は魔術師団に行って、午後は屋敷で書類整理をしていたわ」
「無理はしないでくれ。護衛も保護もつけているが、何が起こるか分からない。いいか、少しでも変だと思ったらすぐにブレスレットに魔力を込めて……」
もはやこの会話は毎朝晩のルーティンだ。心配性なエリックは、本当は屋敷にいてほしいようだが、気分のいい時くらいは身体を動かしたい。ふわりと全身が温かくなって、恒例の健康チェックが始まったらしい。ここ最近、特にお腹の辺りは念入りだ。
「うん、今日も二人とも問題はないな」
「なんせまだ実感すらないからね。疲れやすいとか、熱っぽいのも慣れちゃったし。あ、そうだ。夕食に少しお肉を食べたけど気持ち悪くならなかったの」
「……! それは良かった! 食べたいものがあれば何でも言ってくれ。無理に食べる必要はないが、体重はまだ気にしなくていいらしいからな」
頭頂部にキスが落とされる。エリックは一体いつそんな知識を蓄えてくるのだろう。妊婦である私なんかよりずっと物知りだ。
――そう、現在私とエリックの子がお腹にいる。ある日、恒例の健康チェックですぐに気付いたエリックは、ひとしきり騒いだあと、今まで以上に過保護になってしまった。判明したのがササルタに出発する直前だったから、行きたくないとごねにごねたのは記憶に新しい。お父様とケイシーに文字通り引き摺られていった。
ここ最近は、妊娠初期だったこともあり夜は健全に寝る日々が続いていた。身体が自分のものじゃないような感覚に、とてもじゃないけれどそういうことをする気になれなかったから初めのうちは気づかなかったが、あれだけ毎晩のように求めてきたエリックからのお誘いがパタリと止んだのだ。
私に触れたくなくなってしまったのだろうか? 気づいてしまったら不安で居ても立っても居られなくなり、その日の晩、すぐに彼に訊ねた。言いやすいようにお互いにリラックスしている眠る直前、エリックに抱き着いたままで。
「どうして、その、突然しなくなったの?あれだけ毎日してたのに……」
「え?……ああ、すまない」
そう返されて身体が強張る。私の様子にエリックが慌てて「いや、違う。ラリアが考えているようなことじゃない」と、背中を撫でた。
「……じゃあ、どういう意味?」
「謝ったのは直接言わなかったことに、だ。今までが今までだから信じられないかもしれないが、辛そうにしているラリアにそんな欲を押し付けるようなことはしないよ」
「そっか、そうだったのね。ありがとう」
「ラリアは何も気にしなくていい。それより確認しておきたいのだが、突然俺から誘わなくなって寂しかったのか?」
う……。今度は違う意味で強張った。頬が羞恥で熱くなる。そりゃあ、触れたくないと思われるよりかはいいけれど。でも……。
「分かったなら、敢えて確かめなくてもいいんじゃない? いじわるね」
「いや、ここははっきりとラリアの口から聞きたい。長い間想いが一方通行だったんだから、ラリアから寄せられる愛に飢えているんだ。いいだろう?」
ツンとした声を出して拒否しても、案の定エリックにはなんの効き目がなく。小さく呻ってほんの少し抵抗を見せるも、今までのことを盾にして乞われてしまえば諦めるしかない。勘違いしていたのが照れくさいから言いたくはないけれど、こういうときのエリックが一歩も引いてくれないことは嫌というほど知っている。
「時々……思い出すことはあっても、エリックと歩んできたここ数年の記憶がないこの私だから、やっぱり嫌になっちゃったのかな、って、寂しくて」
エリックが小さく笑ったのが密着しているから振動で伝わってきた。確かに我ながら幼稚だと思う。だから言いたくなかったんだ……と不貞腐れそうになった途端、
「これも違うからな。あまりにも嬉しくて思わず笑ってしまった」
「どういうことよ」
エリックの首元にぐりぐりと頭を押しつけた。余裕のある彼に対し、相変わらず子供っぽい私だから拗ねたくもなる。なんせ精神的な年齢差を感じずにはいられないから。
「ラリアを抱きたくなくなるなんて、そんなことは天地が引っくり返ってもあり得ないから安心して欲しい。ただ、そう思ってくれるまでになったのが奇跡のようだから、つい」
愛し愛されているのが理解できるからこそ、不安が付き纏っているのも事実。未だに、ふとした瞬間に記憶が蘇ることはあっても、また時間が経つと忘れてしまうのを繰り返していた。それでも時折思い出せることが、今の私もこれまでの私も同じ人間だという証拠だけれど、それでも経験したのにしていない、知っているはずなのに分からないことは多々あって。
「このまま完全に思い出せないままなのかな」
「急にどうした?」
「だって、プロポーズとか婚約した日とか結婚式のこととか、この子に聞かれたら教えてあげられないもの」
「……あまりにも必死でみっともないから、それは思い出さなくていいんじゃないか」
「そんなこと言わないでよ。私がいいと思って今があるんだから自信もって、ね?」
「うん、まぁ、そうかもしれないが。同情心に付け込んだのに自信なんて……」
エリックがらしくなく小さく呟く。ん? と頭にハテナが浮かんだ瞬間、脳内で私に必死にしがみつくエリックが浮かんできた。これは現実か想像のか分からないけどやけにリアルだ。いつの記憶なのだろう? じわじわと訪れてきた眠気に抗うように記憶の糸を辿る。
ああ、そうか。婚約することの利点をあれこれと挙げられて、でもそれは私しか得にならないことばかりで。そんなもののためにエリックの人生を棒に振るのもに悪いから、無理に婚約とかしなくてもいいよ、と一度は断ったんだっけ。そうしたらエリックの方にも利はあると説得されたけど、それでも申し訳なさが消えずに返事を渋っていたからだ。今思えば、ジェフリー様との婚約話があったから必死だったんだと分かるけど。
この数年の記憶がないことが分かったときほどでもないけれど、未だにエリックは随分と余裕のある大人に見えるから、私との差に不安になることもある。だけど私にしがみついて、了承するまで絶対離れないからと暴走しそうになったエリックのことも、私の中のどこかでちゃんと覚えているのだ。
腕の中で落ち着けたからか、再び眠気がやってきて瞼が重くなる。妊娠してからというもの、とにかく眠いのだ。もう爪先どころか腰まで夢の世界に突っ込みながらも、エリックに何か言ってあげなくてはと動かない頭で無理矢理考える。
モゾモゾと擦り上がって、エリックの頬に手を添える。
「……大丈夫、だいじょーぶ。そんなに心配しないで。今の私は覚えてなくっても、エリックとの色んなことは身体が覚えてるからこの先もなんとかなるわ」
そう言いながら、私自身、エリックと一緒に歩んできた二十四年は、きちんと私の中であることを確信して、睡魔に身を任せた。
――数か月後、襲い来る陣痛の波と出産の衝撃で全て思い出すことを、この時はまだ知らない。
完