新そよ風に乗って 〜時の扉〜
急に、明良さんが真面目な表情で運転しながら、そんなことを言い出した。
「こういう仕事をしてるとさ、身近に人の死を感じるだろうと思われがちなんだけど、俺はその逆なんだよね」
信号待ちで、明良さんが真面目な顔をしてこちらを見たが、すぐに正面に向き直ると真っ直ぐ前を見据えた。
「いかに患者さんに長生きしてもらえるか、もらうか、それが仕事だからでは割り切れない部分も数多くあって……。だけど、どちらかが音を上げたら、それはすべて俺の負けなんだ。勝ち負けの問題じゃないと怒られるかもしれないけど、患者さんにもう無理だと言わせても、俺自身が限界だと感じたりしても、どちらも俺の負け」
どちらが音を上げても、俺の負け?
「人は、誰だって死にたくない。あってはならないけれど、たとえ自ら死を選んでしまうことが万が一、あったとしても、それでもその人の本心は死にたくないと思ってるはずだから。人が死に直面した時、いったい何を最初に思うんだろうと、陽子ちゃんは思う?」
「私……ですか?」
明良さんの言葉で、翼君のことを思い出していた。翼君にしかわからない、闘いの日々。そこに私が入って励ましたりして、そんなどうこう出来る問題じゃないことを身をもって感じた日でもあった。
「ごめんなさい。わからないです、私……」
「そうだよね。実際、自分がその立場になってみなければ、きっとわからないと思う。軽々しく言えることでもなく、だからといって同情で済まされる物事でもない。でも、俺、思うんだ。人は、必ず誰かを愛している。それが家族だったり、恋人だったり。だからこそ、自分が死に直面した時、真っ先に愛する人のことを思い、憂い、葛藤する。動揺して、狼狽えて、とてもじゃないけど静かに死を受け入れるなんて人は大概いない。それは受け身の立場でも一緒。愛する人が死を宣告された時、同じように、憂い、葛藤する。動揺もするし狼狽えもする。だけど、お互い自分がしっかりしなくちゃいけないと思って、相手を気遣い、平静を装うんだよね。愛する人のために、その人の想い出を少しでも覚えておきたくて、慈しみ、また愛する人を愛す。別れが来た時、旅立つ人は、ひとひらの想い出を置いていく。それは、歳月が過ぎても、時を止めたまま美しくなっていく。もう二度と、愛する人と向き合えないから。それを哀しいと思うか、その想い出を大切に過ごしていくかは、その人次第。だけど、会えない現実は変えられない。だからこそ、人の死は身近であったとしても、遠くに感じていて欲しいし、俺もそう思っていたいんだ」
明良さん……。
「死にたくないのも、死ぬのが怖いのも、それは愛する人を失いたくないから。そして、愛する人を思いながら人は旅立っていく。勿論、健康なことに超したことはないけど、寿命という壁が人間にはあるわけで、だからこそ医者になった連中は、純粋に根本は一秒でも長く患者さんに生きて欲しいと願う気持ちから医者になったんだろうと願望も込めて俺は思ってる。人の命は、最も重くて尊い。陽子ちゃん」
「はい」
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