新そよ風に乗って 〜時の扉〜
「すみません、高橋さん。お勘定、よろしくお願いします。ご馳走様でした」
格子戸を開けて廊下に出ると、急いでさっき入ってきた入り口へと向かった。そして、店員さんに頼んで靴を出して貰い、慌ててお店を出た。でも……。お店を出たまでは良かったけれど、どうやって此処から帰ればいいんだろう?
ふと、夜空を見上げたら、何をやっているんだかわからない自分に嫌気がさして、見上げていた月が、だんだん涙で霞んで見えにくくなっていった。
「バカみたい……」
後先考えずに行動して、後悔して。さっきだってそうだ。聞かなくてもいいことを、高橋さんに面と向かって聞いたりして。
「バカだよね……」
「呆れるほどにな」
エッ……。
「高橋さん……」
振り返ると、高橋さんが立っていた。
「お前、どうやって帰るつもりだ?」
「えっ? あ、あの……。何となく、駅はあっちかなあ? なんて、今思ってたんですけど、やっぱりよくわからなくて、その……」
「貴博。先行くぞ」
「わかった」
明良さん?
エッ……。
すると、高橋さんがポケットからキーケースを出して、それを明良さんに向かって左手で投げると、五メートルぐらい離れた場所に立っていた明良さんに向かって綺麗な放物線を描くようにして宙を舞い、殆ど動かずに明良さんがそれをキャッチした。
「ナイス、コントロール。お先」
お先って、明良さん。
「あの……」
背中を向けた明良さんと、ほぼ同時に高橋さんがこちらを振り返ると、バッグから何かを取り出した。
「何だ?」
「あの、駅はどっちに行けば……」
「乗って」
エッ……。
バッグから取り出したものは車の鍵だったようで、高橋さんが離れた場所からドアロックを解除すると、助手席のドアを開けた。
「あの、でも……」
「いいから」
「えっ? あっ、でも……」
ドアを開けた高橋さんが、私の背中を押して助手席に座らせようとしたが、やっぱり悪いので座り掛けた体勢から立ち上がって外に出ようとしたが、助手席のドアを持っていた高橋さんがドアと上のフレーム部分を持って、まるで壁のように私の前に立ちはだかった。
うわっ。
ち、近過ぎですって、高橋さん。
見上げると、目の前に高橋さんの顔がアップで迫っていて慌てて下を向くと、頭を押された。
「お前、頭ぶつけるぞ」
下を向いたままだったからか、何だか高橋さんの声が凄く優しく聞こえて、そのまま素直に助手席のシートにおさまってしまった。
助手席のドアを閉めてくれて、運転席側に歩いていく高橋さんのジャケットの裾が風でひるがえり、紺色の裏地が街頭の灯りで一瞬光って見えた。何でだろう? こんな些細なことにもドキドキしている。ドアが開いて高橋さんが運転席に座ると、空気が動いて高橋さんの香りが私が座っている助手席の方に流れてきた。
いい香り……。
あまり強い香水は好きではないが、この柑橘系というか、微かに偶に香る感じが何とも言えず好きだった。何処の香水なんだろう? 聞きたいけれど、でも、今は聞いてはいけないような気がした。何時か、聞ける時が来たら聞いてみたいな。そんな事を思いながら、ふと見ると、高橋さんから先ほど手渡されたハンカチを、無意識にまだ左手に握りしめていて、慌てて左手を開いてみると、ハンカチに縦に無数の皺が沢山出来ていてクシャクシャになってしまっていた。
ああ。こんなクシャクシャにしてしまって、申し訳ないな。
「フッ……。お前、本当にハンカチフェチだな」
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