新そよ風に乗って 〜時の扉〜
「戻りました……」
「矢島さん。ちょっといいかな」
誰にともなく口に出して席に着くと、高橋さんに呼ばれた。
「はい」
高橋さんの席に向かうと、腕時計を見た高橋さんが座ったまま、私の視線を捉えた。
「出掛けるから、貴重品は持って行ってくれ」
「えっ? 出掛けるって……私も出掛けるんですか?」
「そうだ。あと、社員証も忘れずに頼む」
社員証?
貴重品と社員証を持って行くとなると、バッグごと持って行った方がいいのかもしれないと思い、バッグを引き出しから取り出した。
「中原。それじゃ、頼むな」
「はい。矢島さんも気をつけて」
「は、はい。行ってきます」
とは言ったものの、何処に行くのかもさっぱり見当が付かない。高橋さんの後を歩いていると、黒沢さんの席から視線を感じた。
「今度は、自宅までお見送りかしら?」
この人、本当に苦手だ。声を聞いただけで、萎縮してしまう。
「外出してきます」
高橋さんは、黒沢さんの言葉など聞こえなかったように、黒沢さんの後に座っている財務の部長に声を掛けた。それを見た黒沢さんは、高橋さんだからか、それ以上のことは言わず黙っている。これがもし、私だったならば、どうだっただろうか。恐らく無視していると、またそれは、それで言われただろう。何とも厄介で、神経を使う人間関係にとても辟易してしまう。これだからあまり自分からは話したくないし、口を開きたくない。口は災いの元と、よく親から言われたことがあったが、その意味が痛いほど今、わかる。目立ちたくはない。
「会社に入ったら、極力、目立ってはいけないよ」
会社の内定を貰った時、父から言われたことで、約束でもあった。エレベーターに乗りながらそんなことを考えていると、降りるはずの1階を通り過ぎてしまった。
「すみません。1階を押すのを忘れてしまって……」
「大丈夫だ。降りるのは地下2階だから」
地下2階? 
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