チョコレートを一緒に 〜それぞれのバレンタイン〜
2.小平家の場合
玄関の鍵が開く音がした。
「ただいまー」
ちょっとテンション高めの声がする。
「ねー太一、みんな喜んでくれたよ、パウンドケーキ!」
入ってきたのは、笑顔の母だ。
「わかった。わかったから、手洗ってからにして」
「あーごめーん」
くるっと回って洗面所に戻っていく。
これ、と思ったらそのことしか考えられなくなるのは、母にとってはいつものことだ。
手洗いうがいを終えた母は、パタパタと走ってきた。
「美里ちゃんがすっごく喜んでたよ。ホワイトデーは期待しててって」
バレンタイン用のお菓子を作った。ココアパウンドケーキ。
よく見るレシピサイトに作り方が出ていて、本当に簡単そうだったので作りたくなった。
試しに作ってみたら、母に大好評。翌日会社で、母と僕の友人である中村美里ちゃんに話したら『私も食べたい!』となった。
美里ちゃんは、家に遊びに来た時に僕が作るご飯を凄く気に入ってくれている。僕も美里ちゃんが喜んでくれると嬉しいので、作ることにした。
母が自分も職場の人に作りたいと言うので、材料を用意した。ラッピング用品も。
そして、作る予定日の前日、母はギックリ腰になった。
夕ご飯の後、食器を片付けようと立ち上がった姿勢のまま、動けなくなった。
久保田さんがいたからすぐにギックリ腰らしいということがわかったけど、もしいなかったら、動けない母と何がなんだかわからない僕ではパニックになっていたかもしれない。
久保田さんが電話して、診察が終わってから真理ちゃんが来てくれた。久保田クリニック院長、小児科医、久保田真理子先生。久保田さんのお母さん。
母と久保田さんが『お付き合い』というものを始めた直後、「真理ちゃんって呼んでね」とウィンク付きで言われた。赤ちゃんの時から診てもらっているお医者さんをそんな風に呼ぶのは違和感ありまくりだったけど、圧力に負けて呼んでいたら、慣れた。
真理ちゃんは「専門外なんだけど」と言いながら母を診察してくれた。「多分ギックリ腰、明日整形外科に行きなさい」と母に言い、僕には「私の分も、ケーキ作ってね〜」と言って帰って行った。
もちろん真理ちゃんのは作る予定だった。久道くんの分と合わせて、パウンドケーキ1本分。
久道くんは、久保田さんのお父さん。僕が真理子先生を『真理ちゃん』と呼んでいるのを聞いて、「僕のことも『久道くん』と呼んでくれないと不公平じゃないか」と言い出した。久保田さんがため息をつきながら「悪いけど呼んであげて……拗ねるとやっかいだから……」と、か細い声で僕に言うので、頑張ってそう呼ぶことにした。かなり抵抗があったけど、これも慣れた。
慣れって怖いなって思った。
久道くんもお医者さんで、近くの市立病院に勤めているんだそうだ。本当は、真理ちゃんみたいに小さな病院で患者さんを診察したいんだよ、と言っていた。どうしてそうしないのか、多分理由があるんだろうけど、それはまた今度話そうと言って『また今度』はまだ来ていない。
「走ってたけど、大丈夫なの」
手を洗い終えた母は、またパタパタとキッチンに入ってきた。
「うん、もう大丈夫みたい。太一のケーキほめられたら痛くなくなった」
「なにそれ」
「嬉しいってこと」
3日前はちょっと動こうとしただけで痛がっていたのに。回復早くない?
「無理するとぶり返すからやめてよ」
「大丈夫だよ。須藤さんも喜んでくれたよ〜、本田さんはチョコ好きだって」
「ふーん、それは良かった」
「ちょっと、なによ気の無い返事」
本田さんて確か須藤さんちのママさんだよな、と思いながら返事をしたら、そう聞こえたらしい。
「だって、別に僕が渡したかった訳じゃないし。代わりに作っただけだし」
動けない母に代わって、母が作る予定だった分も作った。1人分は3切れ。1本を8等分して、ラップで1つずつ包んで、透明な袋に入れる。口をワイヤーリボンで留めたら完成。
須藤さんちと美里ちゃんは切らずに1本。そして、仕事で凄くお世話になっているらしい上司の小田島さんにも1本。
多いんじゃないかと言ったら、小田島さんは14日は実家に行く予定で、お姉さんの子どもたちもいるからそちらにも分けられるように、と母が言う。
言われた通りに作り、買ってあった紙袋に入れた。
結構な量を作った。達成感と、ちょっとストレス解消にもなったみたいで気分は良かった。